だめな自分もまるごと愛する、ということ

普段そんなにアニメは観ない。
他のプリキュアも観ていない。
でも、ハートキャッチプリキュアは本当に大好きだった。

放送当時、たまたま母の日の回(名作)を観て、現在の夫と二人でぼろぼろ泣き、それから毎週観るようになったのだった。
数年前にテレビ神奈川で再放送をしていたので、全話録画した。
それを最近、何週間かかけて、最初から観た。


ハートキャッチプリキュアのテーマは「コンプレックス」である、と以前どこかで制作者の方が話していた。

一人めのプリキュアは、臆病で引っ込み思案な自分を変えたい。
二人めのプリキュアは、モデルで美人の姉に劣等感を持っている。
ほかの登場人物たちも皆、それぞれの悩みや不安を抱えている。
なにかを我慢していたり、本当のことが言えなかったり、好きなのにどうしてもうまくできなかったり、自分に自信がなかったり。
そこを敵につけこまれて、デザトリアンという怪物に変身させられ、そこで初めて自分の本当の気持ちを口にする。
周りの人間は、それを聞いて初めて、彼や彼女の気持ちを知る。

プリキュアに浄化され、元に戻った人たちは、夢の中の記憶としてそのときのことを思い出す。
そして自分の本当の気持ちを受け入れる。
受け入れて、少し、強くなる。


今回改めて最後まで観てみて、改めて、これ子供向けじゃないよなあ、と思った。
特に後半、プリキュアたちがさらに強くなるために、試練を受けるところがある。
その試練の内容が「影の自分と戦う」なのだ。

あなたは弱い、あなたはこういう人間だ、と影の自分は言う。
だけど私は変わった、それは過去のことだ、とプリキュアは言う。
じゃあ、と影が言う。
じゃあ、がんばってきた私は、もう、いらないの?


自分の影との対決、そして受容。
まるでカウンセリングのよう。

本当の私、とか、自分の弱さが嫌い、なんていう気持ちをいつのまにか通り過ぎてしまった私でも、心が揺れる。
それは多分、いつか存在していた私、がそこにいるからだと思う。
私はちゃんと、あのころの私を抱きしめられているだろうか。



大人にこそ観てほしいプリキュア
もし再放送を見かけたら是非。



Blu-rayこれから発売なのか!!
それは再放送はないな。

笑顔ひとつを武器にして

20代後半のある時期、笑顔が武器だと、立て続けに言われたことがある。

 
そもそも「笑顔は最大の武器であるなあ」というのは、私自身がそのころ(正確にはその少し前)好きだった人に対して思っていたことだった。
ならば私にとってもそれは武器になりうるのかもしれないと、思ったのだか、思わなかったのだか。
少なくとも、うれしいときにちゃんとうれしい顔をしよう、と思ったのは覚えている。
好きな人と話せてうれしいなら、ちゃんとうれしい顔になったらいい。
笑顔に自信はなかったが、うれしい顔をするくらい、いいではないか。

それから一年か二年経って、すっかり友達になったその人から、言われたのだ。
私のことを、笑顔が武器やからな(京都弁)、と。
まあ驚いた。
それはあなたですよ、あなた。

さらに驚いたことに、後日、別の人からも言われる。
笑顔が武器だでね(信州弁)、と。

二人が顔見知りである可能性は高いとはいえ、わざわざ私の話をするほどの仲とは思えなかった。
それでも、もしかして共謀して私をかつごうとしているのかもしれない、と思わないこともなかったが、素直に、うれしくもあった。
そうか、私の武器は笑顔だったか。
そうかそうか。

さらに数ヶ月後、転職活動中に、また別の人からメールで言われた。
笑顔は君の武器なのだ、と。
三度めともなると、さすがに面白くて、もう単純にうれしかった。
信じよう、と思った。



笑顔には自信がなかった、と書いたが、もっと若いころは、自信がないどころか自分の笑顔は気持ち悪いのだと思っていた。
中学生のときに言われたのだ。
「気持ち悪い」。

当時の私は、たとえば代わる代わる誰かをいじめのターゲットにして群れている女子とか、クラスのおとなしい女子をバカにして喜んでいるような男子に良い顔ができない、むしろ露骨に嫌悪感を出してしまう、正義感が強いというか空気を読まないというか、そんな子供だったので、敵も多かった。
そういう連中に言われた「気持ち悪い」だった。
思春期にはかなり堪える。

だからといって笑うのをやめるほど繊細ではなかったし、信頼できる友達も何人もいたので、それからも普通に笑って過ごしてきたが、心のどこかに、その言葉はずっと引っかかっていた。
慣れない場所で、慣れない人たちを前にすると、笑ったら気持ち悪いと思われるかも、と怖くなる。
仲良くなってしまえばそんなことは忘れてしまったけど、初対面はいつも緊張した。人見知りを克服してからも、初対面の人に対して笑うたび、気持ち悪くなかったかな、と不安になった。

でもそれから10年以上経って、いろんな人と出会い、いろんな友達ができて、少しずつ、わかってきた。
たぶん、言うほど気持ち悪くはない。
ごくふつう。
中には、笑ってたほうがいい、と言ってくれる人もいて、それには本当に救われた。


そこからの「笑顔が武器だからね(標準語訳)」である。


ここに到達するまでにいちばん大きかったのは、自信だと思う。
笑顔に対する自信ではなく、自分への自信。
家族や親友を筆頭に、今まで出会って仲良くなって、やがて疎遠になっていった、たくさんの人たちに、私はちゃんと愛されてきた。
たくさんの人たちが私に、作り笑いではない笑顔をいっぱい向けてくれて、また会おうと言ってくれて、
大好きなその人たちがきっと好きでいてくれた私、というものに対する自信。
それがいつのまにか、武器と言ってもらえるほどの笑顔に結実したのだと思う。


私はいわゆる女子力というものが死ぬほど低い。
家事全般苦手だし、おしゃれにもあまり興味ないし(あまり、という副詞が入るあたりが乙女心)、部屋も汚いし、女子会なんかもしないし、流行りものにも興味ないし、飲み会でお酒ついだりもしないし、脇汗すごいし、鼻は上向いてるし、ちょっとしゃくれてるし(ちょっと、という副詞が(以下略))容姿内面ともに惨憺たる有様である。
それでも時々は異性に好かれたりして、好きな人に好きになってもらえたりして、結婚までしてしまった。
武器と呼べるものは笑顔しかないのに。

これってすごいことだと思うのだ。
もともとの顔の美醜では決してない。なにしろちょっとしゃくれてるし。他にもいろいろとアレだし。
持っていないものを求めて努力するのは、もちろんすばらしいけど、笑顔ならば、誰だってすぐに武器にできるのではないか。

同性でも異性でも、仲良くなりたい人がいる方、ぜひ笑ってみてほしい。
あなたを受け入れています、という気持ちで。
特に人見知りさん相手には効果覿面です。
初めは「えっ…」という顔をされても、そのうちきっと心を開いてくれる。
 

ちなみに私自身は、今はよそではむやみに笑わないようにしている。
なにも考えずに人と話すときは笑顔でいたら、余計なところから余計な好意を持たれそうになったので。
勘違いの自意識過剰かもしれないけど、逆に勘違いされるよりよほどいい。
そう、俺のこと好きなんじゃ? と思われる可能性があることが、この武器の危険なところ。
まさに諸刃の刃。



トキノマニ

トキノマニ


うれしいうれしいうれしいと思うままに
うれしいうれしいうれしい顔になりたい
私は知ってる
不幸は幸せの中にあるもの
奥井亜紀「ゆびきりげんまん」


この曲が好きでよく聴いていたので、うれしい時にはうれしい顔、と思ったのです。
今もとても大好きな曲。

友情、努力、その他

ジャンプで連載していた「ニセコイ」が完結しましたね。
単行本派の人はネタバレになるので、もしいらっしゃったらお引き取りください、すみません。

10話くらい前から、これはまずいな、これダメなやつだわ、と予測できていたけど。
こういう、ヒロインがたくさんいる話では、万人の納得できる結末はないと、わかってはいるけれど。
私にとっては完全にバッドエンドです、という話。

夫が毎週ジャンプを買っているので、第一話からずっと見てきた。
このマンガの魅力は、むやみにサービスショットがないところと、ラブコメ少年マンガの主人公にしては珍しく、どんな女の子が登場しても決して目移りしないところ、だと思っていた。
ブコメ少年マンガって、いろんな女の子に揺れ動いて、誰を選ぶのかが主眼みたいなのが多いので。

それなのに。
なんで最後の最後で揺れ動いちゃうの。
それじゃ他のラブコメ少年マンガと同じじゃないか。

さらに言えば、
一歩一歩、勇気をもって強くなろうとしてきた子より、最終的に逃げ回ってみんなに迷惑をかけるような子を選ぶ、というのも、がっかり。

これがもし少女マンガで、ヒロイン側から見た物語なら、まあ、しょうがないと思う。
よくある話。

でもこれは週刊少年ジャンプだ。
友情、努力、勝利。
それなら努力したほうに報いてほしかった。
ユウジョウ、ドリョク、ニドネ
ユウジョウ、ドリョク、ダレカノシリヌグイ
と頭の中でラブラ(@ジュエルペット)の声がリフレインだ。

何、やっぱり女の子はめんどくさいくらいがいいの?
強そうに見えて本当は弱いのがやっぱり最強なの?
みたいなね。


という、マンガの結末に久しぶりにがっかりしたよ、という勢いにまかせての記事でした。
最後の方は申し訳ないけど流し読みだよ。
まあ、人の心は変わる、ってことなのねー。


ああ、でも、なんだかんだ言って中盤はきゅんきゅんさせていただきました。
文化祭とか、クリスマスとか、るりちゃんのお爺ちゃんの話とか、よかったなあ…。
古味先生お疲れ様でした!!


ニセコイ 1 (ジャンプコミックス)

ニセコイ 1 (ジャンプコミックス)




サンシャインは名作だと思う





つわりと精神論

つわりがきつい、といっても、吐きつつもなんだかんだ食べられてはいるので、こんなのきついうちに入らないのかもしれないけど、きついものはきつい。
海亀のように涙を流しながら胆汁を吐く日々。

つわりの原因やメカニズムは未だ完全には解明されていない、という。
そろそろ本気で解明に向けて動いてくれてもいいと思うの、と子供のいる友達に言うと、
初期は流産の危険があるから、母体を安静にさせるためにつわりがあるとか言うよ、だとか
おなかの赤ちゃんが自分の存在を主張してるらしい、だとかいう返答がきた。

いやいや、そういうことじゃない、と思う。


でもつまりはそういうことなのか、とも思う。


人類が誕生してから今日に至るまで、毎年、無数の女性が出産をしているわけで、そのサンプル数は膨大であるはずだ。
それなのに未だにつわりのメカニズムは不明。
本気で解明する気がないんじゃないの、と思っていた。

それは結局、子供を産むってそういうことよ、苦しいことに耐えてこそ一人前の母になるのよ、という考えが蔓延しすぎているからなのではないか。
つらくて当たり前。
そういうものなのだから我慢しろ。

そういうもの、という断定や諦めは進歩の敵だと思う、何事も。

安静にするためだから仕方ない、赤ちゃんの自己主張だから仕方ない、なんていうのは、そう考えなくてはやっていけない、と母親自らが思うのであればいいけど、人に言われて納得できるようなものではない気がする。
いや別にそんなのなくても安静にするし。
自己主張だって、安定期に入ったら止めちゃうのかよ、だし。
苦しくなくても愛するし。

嫌いなのだ、精神論。
というか精神論で丸め込もうとする考え方が。

おそらく友人たちも、誰かに言われたかどこかで目にしたことを、そのまま伝えているだけなのだろう。
そういう精神論が当たり前にまかり通っている妊婦の世界。


現実的に、つわりなんて余程のことがなければ生死に関わるものではないので、もっと重大で深刻な病気の研究に力を注ぐのは、当然といえば当然なのかも。
それでも毎年世界で一億人もの子供が産まれていて、それだけの妊婦がいるのだから、もう少し、原因と対策(とくに対策!)の解明に本気を出してくれてもいいと思うのよね。
それっぽい精神論に逃げるのではなくて。


ちなみに、つわりきつい、と母に弱音を吐いたら、体の中に異物があるんだからしょうがないでしょ、とばっさり。
赤ちゃんの自己主張らしいよ、なんて言ったら、はあ? と鼻で笑われそう。
きれいごとも何もないので、逆に清々しい。


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先日のキャンペーンでの、はてなさんからのQUOカード、無事こっそりと受け取ることができました。
早速使っています。
ありがたいかぎりです。


母の不用意発言に惑わされる話

私の母はちょっとサザエさんに似ている。
主にうっかりさとか、忘れっぽさ、不用意さが。

そんな母のここ最近のベストオブ不用意発言は「うちは望んで子供ができたわけではないし、欲しいとも思ってなかった」である。
それを長子の私に言っちゃうのだ、あの人は。
思春期だったら家出だ。

この発言はあくまで「結婚してすぐ子供ができたので、欲しい欲しいと思っていたところにできて嬉しい! という感じではなかった」という趣旨に過ぎない。
「子供なんていらなかった」とは言っていない。
言っていないが、そのあたりの判断は聞き手次第。
そこを補わないのが母なのである。
誤解されても文句は言えない。


私は、自分では、ちゃんと愛されて育ったと思っている。
愛されて、というのは大袈裟かもしれないが、少なくとも、ちゃんと育ててもらったと自覚している。

小さい頃、夜中に怖い夢を見て泣いていると、すぐに母が目を覚まして、よしよしと撫でてくれた。
それが嬉しくて、無性に悲しいときや寂しいときにも、怖い夢を見たふりをした。
そのたびに母は必ず撫でてくれた。
かわいいかわいいと甘やかされた記憶はひとつもないが、ちゃんと大切にされていたのだとは思う。

だからもし、母の発言の真意が本当に「子供なんていらなかった」だとしても、別にそれでもいいかと思う。
欲しくもなかった子供を、十月十日も腹の中で温め、産んで、ちゃんと育ててきたのなら、それはむしろすごいことだ。

ただ、もしそうだとするなら、なんだかすいません、という気持ちにはなる。
私の責任ではないので、母にありえた別の人生について云々する気はないけれど、そうやって育ててもらった恩返しは、しっかりしなくてはならない。
欲しくなかったとしても、産んでよかった、と思わせてやりたいとは思う。

とはいえ、どうすればいいか。 
若い頃、周りの友人たちを見ていて、結婚して子供を産むのってやっぱり最大の親孝行なのかなあ、となんとなく感じたり(そしてそれを叶えられないことを申し訳なく思ったり)もしたけれど、母に関してはどうもそのへんは怪しい。
孫を溺愛するというようなタイプではないのだ。
7歳の孫(弟の子供)に対してムキになって喧嘩したりしている。
もちろんかわいがってはいるのだが、むやみに甘やかさず、よく叱り、私や弟が育てられている時と、大して差がないような気がする。

なので、このまま順調に出産まで辿り着いたとしても、それが即、親孝行、とはならなそうなのである。
むしろ海外旅行とか連れて行ったほうが喜ぶのではなかろうか。飛行機も乗ったことのない人だから。


なんていろいろ考えても、本人は親孝行などはなから期待していないのだろう。
子供時代から現在に至るまで、母から何かを期待された覚えも、母の言動をプレッシャーに感じたことも、一度もない。
まあ、私も相当ぼんやりした子供だったので、もしかしたら気づかなかっただけなのかもしれないけど。

ちなみに父からは、結婚する前から、早くかわいい女の子の孫が欲しいなー(男児の孫は二人いるから)、としつこく圧をかけられていた。余談。


話が広がりすぎて主題を見失いかけていたが、つまり母はそういう、不用意な発言で周囲を惑わすところがある、という話。
私までまんまと惑ってしまった。

それによって同じように思い悩んでしまったのが、弟のお嫁さん。
もともと人の言葉を深読みしたりして思い悩みやすい人なのだけど、今回もまんまと惑わされ、こんなこと言われた、と私に相談してきた。
具体的には、「授かり婚で、望んで子供ができたわけではないから、○○(私の弟)は子供をかわいがらないのだ」と言われた、と。
そんなこと言うか?? と半信半疑で母本人に確認すると、えー! と驚いた様子で、そんなこと一言も言ってない、と言う。

その流れで、冒頭の発言が出てきたのだった。
でも、うちは望んで子供ができたわけじゃないって話ならしたよ、と。
いきなり私自身に関係する話。
不意打ちもいいとこだ。
そういうとこだ、そういうとこ。
その不用意さが誤解を招くんだよ。


たぶん私も、自覚していないだけで、その不用意さを受け継いでいるんだろうなあという気がしている。
少なくともうっかりさとか、忘れっぽさは、確実に受け継いでいるので、
とすれば、不用意さも付いてきちゃっていると思う、残念ながら。

気をつけよう。
なるべく、気をつけよう。
なるべくとか言ってしまうあたり、なんかもうだめな気がするけど。



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光の中でのびている白猫

はてなさんJR西日本さんありがとうございます

久しぶりにメールを見たら、はてなさんからメッセージが来ていて、先日のJR西日本マナーキャンペーンのお題でのまさかの入選。


ああびっくりした。
妊娠してから疲れ目がひどく、数日間ブログもメールも見ていなかったのだ。
しばらく休もうかなあと思っていた。
なんならもうこのままフェイドアウトかしら、くらいの。
でも、こんなことってあるのだなあ。
こんなことがあると、もう少し続けてみようかなと思う。

読みに来てくださった方々、スターをくださった方々、ありがとうございます。
ごめんなさいね、たいした記事ではなくて。
「ピクニックの歌」というタイトルだけは気に入っているんだけど。
まさか選ばれるとは。

夫には内緒のブログなので、QUOカードはなんとしても自分で受け取らねば、と今から緊張している。
Amazonギフト券ならよかったのに(勝手)


最近はつわりと体力低下のせいで、通勤時に周りを見たり、歩きながら写真を撮ったりする余裕がないのだけど、落ち着いたらまた、いろいろ見て、いろいろ考えて、書いていけたらいいな。


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少し前に駅のホームを小走りしていたセグロセキレイ



ZABADAKにまつわる記憶

10年前の冬、大学の後輩が亡くなった。
いつもにこにこしている、猫と音楽が大好きな人だった。
彼の音楽の守備範囲は広く、私が名前も知らないような海外の人も多かったけど、邦楽になると意外と趣味が似ていた。
それほど親しいわけではなかったのに、なぜか卒業後に、他の後輩と三人で小島麻由美の学園祭ライブを観にいったことがある。
風船と紙コップ、改札で手を振る笑顔。
それが最後に見た彼の姿だった。

いつか飲み会で彼とZABADAKの話をした。
その人もZABADAKが好きだったのだ。
別の人の、あの声がちょっと苦手、という意見に遮られてあまり深くは話せなかったが、私は、うれしかった。
マニアックなほどの音楽好きで一目置かれるその人と、同じ音楽を聴いていることが。


初めて聴いたのは中学の時、友達の家でだった。
一曲めの「満ち潮の夜」を聴いた瞬間に、なんだこれ、と衝撃を受けた。今まで聴いたことのある、どんな音楽とも似ていない。
こんな音楽が、あるのか。

それから自分で買ったり、レンタル店で借りたり(いま思うと、あんな田舎町によく置いてあったなあという気がする)して、少しずつ手元に揃えていった。

大学の頃か、卒業後か、一度ライブにも行ったことがある。
開演前の会場前で、幾人かがリコーダーを吹いていて、なにごと、と思ったらライブ中に自由参加でリコーダーを吹く企画があった。
あったと思う。
その頃の記憶が全体的に曖昧で残念。



後輩の葬儀のあと、頭の中で、ずっと「光降る朝」が流れていた。
口ずさんでみる。

人恋しくなる長い夜を
これから誰と二人で生きても
瞳の先に光を見つめていこう


猫と音楽でいっぱいの、光の庭に彼は行ったのだと思った。
やさしい光に満ちた、とてもとても美しい庭。
そして私は彼の生きられなかった未来にいるのだと。


光降る朝

光降る朝



吉良さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
すばらしい音楽を、思い出を、ありがとう。