虹始見(誰かと見ること)

このところ子供の夜泣きが激しく、日中の過ごし方もいろいろ思うところあって、「不測の事態が起きない限り続ける」宣言をしたばかりですがしばらくお休みします、とご報告するつもりで記事編集画面を立ち上げたところで、ああーでもやっぱりもう少しがんばるか…と気が変わった。遅れ遅れで恥ずかしいのだけど、もう少し続けてみます。

 

先日(3日前?)終了した清明の末候、虹始見、にじはじめてあらわる。冬の間は見えなかった虹が現れはじめる頃。

といっても冬に虹が出ることももちろんあって、俳句には「冬の虹」という季語もある。虹は空気中の水滴が太陽光をプリズムのように分解することで現れるので、空気が乾燥している冬は現れにくい、ということだと思う。冬でも空気が湿っていれば現れる。


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ある年の12月末の夜明けの虹、信州にて。雪国の冬はそこまで乾燥しないので虹も出やすいのではなかろうか。

 

虹とは違うが、やはり信州にいた頃、幻日というものを何度か見た。虹と似た現象で、太陽の横に小さな太陽のようなものが現れる。


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右が本物の太陽で左が幻日。写っていないけど太陽の右側にも出ていた。

これが消えた直後に会った知人に、見ましたか? と訊いたら、目の錯覚だよ、と全否定された思い出。

 

幻日を誰かと一緒に見たことはまだないけど、虹を誰かと一緒に見るのは、嬉しい。

東京で働いていた時に、外出した人が、虹が出ている、と教えてくれて、部署のみんなで仕事を中断して(たぶん閑散期だった)普段は封鎖されている非常扉から外に出て、みんなで虹を眺めたことがある。夏の夕方だった。細い天気雨が降っていた。体にまとわりつく熱気と室外機の音。みんなの疲れた顔が橙色に染まっていた。その会社は今はもうなくて、みんなばらばらになったけど、あのときの不思議な多幸感を思うたび、みんな幸せでいるといいなと思う。

 

冬空にみっつ並んだ太陽がまぼろしならばわれもまた夢

 

 

 

鴻雁北(いつか見たはずの)

鴻雁北、こうがんかえる。雁が北へ渡っていく頃。雁、は「がん」であり「かり」、どちらも同じものらしい。ツバメが来たかと思ったら雁が去っていく。ツバメは南で越冬して日本で子育てするが、雁は越冬のため日本に来て、北に帰って子育てをする。つまりツバメより雁のほうが寒いところの鳥ということ。

雁といって思い浮かべるのは群れでV字になって飛んでいる姿だ。夕暮れの空に、矢印のように隊列を組んで飛翔する、鳴きながら遠ざかっていくのが、見える。

でも、私はおそらく実際にはそれを見たことがない。だって、雁は北海道、宮城、新潟などの限られた湖沼にしか飛来しないというのだ。その場所に行ったことがない。子供の頃に空を仰いで見たことがある気がするのに(茨城の霞ヶ浦にも飛来するらしいが行ったのは大学生の時だ)どうやら本当は見ていないらしい。どうして見たと思ったのだろう。

 

小学校の国語の教科書に雁の話が載っていた、という記憶があって調べた。椋鳩十「大造じいさんとガン」。題名を見てもまったく内容が思い出せなかったが、Wikipediaによるとあらすじは以下のとおり。長いです、すみません。(読まなくても本文あまり影響ありません)

 

前書き

猪狩りに参加した私は、猟師たちから栗野岳に住む大造じいさんという72歳の猟師を紹介される。大造爺さんを訪ねた私は昔話を聞くうちに、35・6年前に起きたガンの頭領「残雪」との知恵比べの話に引き込まれていく。


1の場面

大造じいさんは、栗野岳の麓の沼地を狩場としてガンを撃っていたが、翼に白い混じり毛を持つ「残雪」がガンの群れを率いるようになって、一羽の獲物も仕留められなくなっていた。そこで、タニシをつけたウナギ釣り針を杭につないだ罠を仕掛けることにした。初日に1羽を生け捕りにしたものの、翌日はすべてのタニシを取られた罠が残っているのみだった。丸呑みを禁じ、引き抜いて食べるように残雪が指導したものと判断した大造じいさんは感嘆の唸りを上げる。


2の場面

翌年の狩に備え、大造じいさんは夏から俵1杯のタニシをかき集め、餌場近くに小屋を立てた。餌場にタニシをばら撒き、降り立った群れを小屋から狙い撃ちにする算段だった。飛来した残雪は、新たに現れた小屋を不審に思ったか、餌場を代えて寄り付こうともしなかった。大造じいさんは憎悪を覚える。


3の場面

3年目の対決に備え、大造じいさんは初年に捕らえたガンを囮にし、残雪の群れを誘導できるよう調教した。囮ガンは大造じいさんの肩に乗り、口笛の指示に従うところまで慣れた。決行の朝、大造じいさんが囮ガンを飛ばす直前、ハヤブサの奇襲を察した残雪の群れは一斉に飛び立った。飛び遅れた囮ガンにハヤブサが襲い掛かる中、残雪が割り込み、ハヤブサと交戦する。射止める絶好の機会を目の当たりにしながらも、大造じいさんは何故か一度向けた銃口を下ろす。墜落し、なおも地上で格闘する2羽を追って大造じいさんは飛び出す。逃げ出したハヤブサと対照的に、血まみれのまま大造じいさんを睨み据える残雪に威厳を感じる。


4の場面

大造じいさんの手当てを受け、傷が癒えた残雪を放鳥する。飛び立つ残雪を「ガンの英雄」と称えつつ、大造じいさんはこれまでの卑怯な頭脳戦を悔い改め、正々堂々の真っ向勝負を誓いつつ、残雪が飛び去るまで見送った。

大造じいさんとガン - Wikipedia

 

3の場面を読んでいるうちにようやく思い出してきた、話の流れを、というより、読んでいた当時の私が、ほう、と思ったことを。真っ白な雪の中で(というイメージだった)血まみれの残雪がこちらを見据えているシーンが印象的だった、ということを。そこに挿絵はあったのだろうか。私の頭の中に蘇るその映像は当時の挿絵なのだろうか、それとも当時の私が想像したものなのだろうか。

 

V字の隊列を組んで飛ぶ雁の群れを見たことがあると思っていたのも、この物語で見たから、という理由な気がしてきた。飛んでいるシーンの挿絵はあったように思う、それが夕暮れだったかは別にして。

だとすると、物語の中の風景を、実際に自分が見たものと混同していたことになる。教科書の静止画を頭の中で羽ばたかせ、それを地上から見上げていた。自分が物語の中にいる。それほど惹き込まれたのだろうか。だというのにあらすじをまったく覚えていないとは、と自分が情けなくなったが、同時期の家族旅行での出来事も親に言われるまで完全に忘れていたものがたくさんあるので、どちらもエピソード記憶とするなら別におかしくもないのかもしれない。

 

今はさすがに物語で見た風景と現実を混同することはない(と思う)けど、映画でも本でも、どっぷりその世界に潜ってからふと横を見ると子供が寝ていて、お…おお、そうかうちには子供がいたか、と思うことはよくある。深く潜れば潜るほど、目の前の、子供と猫がいるこの日常が新鮮に見える。新鮮で、美しい。物語のもつ効用のひとつだと思う。

 

いつか見た景色のなかを飛ぶ鳥を指さしている目を閉じたまま

 


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最近スズメも鳩もいちゃいちゃしている。ツバメもやって来て近所に巣作りを開始しました

 

 

玄鳥至(一候遅れ甚だしい)

また間に合わずに次の候になってしまった。

玄鳥至、つばめきたる。ツバメが南から渡ってくる頃、が昨日で終わりました。

何を書こうか、ツバメで検索してあちこちのサイトを読み漁っていたのだけど、ツバメの文字を見すぎてツバメなんだかシバメなんだかわからなくなるばかりで書くことがまったく思いつかないのだった。もう今回はパスしちゃおうかなあとも思った。パス3まではゲームでも許容されるではないか。ん、もしかしてそれって「仏の顔も三度まで」に由来するのか? それより、パス3まで認められてるゲームって具体的に何だったっけ? などとどんどん思考が逸れていく始末。

でも、とにかく七十二候がひとまわりするまでやる、と自分で決めたから、とんでもない不測の事態が起きるまでは、やる。パスしたらその候が自分の中でないものになってしまいそうだし。

 

家の近所に、毎年(私が知る限り毎年)ツバメが巣を作る場所が少なくともふたつある。ひとつはアパートのすぐ隣にある小さな製本会社の玄関先。もうひとつは通りを渡って路地を入った五軒ほど先の家のやはり玄関先。改めて比較してみると、どちらもコンクリートの天井があり、三方を壁に囲まれた空間の、その中でもやや奥まった場所、という共通点がある。カラスなどの敵に襲われにくいという意味ではかなり良い場所であるといえる。

人様の敷地なので巣立つまではあまりじろじろ覗けないが、巣立ってしまえば舞台は道の上になるので見放題だ。だいたい5月下旬から6月頃になると、巣のある場所の近くで数羽のツバメがひよひよと飛んでいたり、並んで電線にとまっている。ひよひよ、そう、飛びはじめはいつも危うくて、ああこの子は今年生まれた子なのだ、というのがよくわかる。それがだんだん上手に飛べるようになるのを、立派になって、としみじみ眺めるのが好きだ。

 

去年の6月、友達が家に遊びにきた日、アパートの目の前の電線にツバメがずらりと並んでとまっていた。7、8羽いたと思う。うちはアパートの二階なので、玄関前に立つと目線とほぼ同じ高さに電線があり、そこにずらりとツバメ。訪ねてきた友達を歓迎しているようだった。

ツバメの生態について調べていて、ツバメは一回の産卵で3〜7個の卵を産む、というのを見て彼らのことを思い出した。あのツバメたちは去年生まれたきょうだいだったのだろうか。隣の会社の軒下で生まれたきょうだい。

しかし、巣立ちまでのツバメの生存率は50%だという。彼らがみなきょうだいだとしたら、生存率100%に迫ることになってしまう。となると近所の家族と混ざっているのか。幼なじみか。それとも、親ツバメは春から夏のあいだに二度産卵するというから、その二回ぶんの若鳥…にしては大きさも同じくらいだったから、それはないな。

巣立ってから秋に南へ飛び去るまでの生存率はさらに下がって13%になるという。大半はカラスや猛禽類に襲われる。

うちの近くには広い雑木林があって、そこには大勢のカラスが棲んでいる。夕方になればみんなそちらに向かって帰っていくし、林の上空で、よく集団対集団で揉めているのも見かける。ツバメのとまっていた電線に来ることももちろんある。

去年、アパートの駐車場に落ちている鳥の死骸を警察が回収しに来たことがあった。日記に残っていないので、正確には覚えていないが、夏だった気がする。地面の痕跡は水で洗い流され、真っ白な羽毛がふわふわと辺りに散らばっていた。あれはもしかしたらツバメだったのかもしれない。

 

9月には玄鳥去、つばめさる、という候がある。今年もきっとあの場所にやってくるから、秋には今年のツバメたちの話ができたらいいなと思う。

 

渡り鳥死ぬまで旅をつづけても生まれた場所はただひとつだけ

 


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そういえば先々週あたりからようやくウグイスが鳴きはじめました。一週間経ったら鳴き方がとても上手になっていた。この大きな木のあたりから何度も何度も聞こえてきたけど姿はまだ見ていません

 

雷乃発声(遠くで呼んでる)

雷乃発声、かみなりすなわちこえをはっす。遠くで雷鳴がきこえる頃、ということだが、遠くとは。日本じゅうどこにいても遠く? そんな場所があるの? 空の上?

 

春の雷は、寒冷前線が通過する際に、南からの暖気が勢いよく流れ込んでくると発生するらしい。冬の名残りと春のぶつかり合いという感じだろうか。

一方、夏の雷は地上の熱が上昇気流となって 雷雲をつくり、そこで発生するもの。夏の雷はどっかんどっかん近くに落ちている(感じがする)けど、春の雷が遠いというのは、もしかしたら雲の中で音を響かせ、地上にはあまり落ちてこないのではないか、と想像する。それならいつもどこからでも遠い。本当のところは知らない。

 

天気予報を見ると、まさに今夜、寒冷前線、が本州を南下するそうだ。南から温暖な空気が流れ込んでこないと雷にはならないが、もしかしたら、と思う。

立春のあと初めて鳴る雷を、初雷、または虫出しの雷と呼ぶことも、今回調べていて知ったこと。

 

と書いて寝落ちしていた…日付が変わってしまった…

前回は一候遅れと思っていたけどぎりぎり遅れていませんでしたね。何を勘違いしたんだろう。

 

春雷の空に響いて少しだけ遠く遠くへ誘われる夜

 
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雪のようで花

 

桜始開(一候遅れのいまさら)

桜始開、さくらはじめてひらく。桜の花が咲きはじめる頃。

一候遅れでぐだぐだだけど、この候に切り替わった頃、私の周りでもまさに桜が咲きだした。去年の日記では4月4日に三分咲きと書いてあるので、去年より10日ほど早いのか。しかも去年は同じ場所に植えられているソメイヨシノの一群が盛りを過ぎてからベニシダレ(たぶん)の一群が咲きだしたのに、今年はほぼ同時に満開を迎えた。時期がずれるのと同時に咲くのとどちらが標準なのかはもう何年か見てみないとわからないが、とにかく今年は遠目に見ても豪華である。華やかである。

というわけで毎日、時には午前と午後の二回、桜を眺めに散歩する日々だった。ブログも書かずに。

 

梅が咲きはじめる頃はまだ余裕がある。そこから地面にオオイヌノフグリホトケノザ、と咲きはじめ、ハナニラ、花大根、見上げれば辛夷、と来たあたりで一気に春が、というか花が加速する。木蓮、雪柳、シデコブシ、寒緋桜、ミモザ沈丁花、足元にはスミレ、タンポポ、と辺りが花だらけになる。そうなると焦る。ああ、咲いちゃった、どうしよう、散る前にちゃんと見ておかねば、と思う。やたらと散歩が増える。

そこに桜が咲くともうどうしようもなくなる。すぐに散ってしまうのがわかっているのもあるし、咲き始めから満開になって散るまで、日に日に様相を変えていくので、どの姿も見逃したくないと思ってしまうのだ。貧乏性なのだと思う。

しかし桜の名所だとかに出かけることはなく、愛でるのは近場の桜。いつも通る道にある桜の木が、蕾が膨らんで咲いて散って葉桜になる、までを見届けるのが良い。

今朝、明け方に目が覚めたらごうごうと風の音がしていて、ああ今ごろあちこちで花吹雪になっているのだろうな、おそらくは月明かりの下で、と思ったら外に出たくてうずうずしたけど、隣で子供が寝ているので我慢した。今日は用事があっていつもの桜を見に行けていないので、もうだいぶ散ってしまったろうか、と少し寂しい。

 

そんな桜好きな私だが、何年か前、ちょっと精神的にしんどかった時期は、桜の季節が憂鬱だった。その時に近くにあった桜といえばソメイヨシノ一択で、川沿いに何キロにも渡って植えられた桜はみな枝を川に向かって低く伸ばし、満開の時期はそれは見事なものだった。が、その年はそれが嫌だった。強制的に冬を終わらせる春を傲慢だと思った。ソメイヨシノ自体、クローンだし無闇に花ばかり多くて偉そう、とあまりいい印象がなかったのもある。

その年は目を逸らすようにしてソメイヨシノをやり過ごし、通勤路の民家の八重桜が咲いた時に初めて、ああ、桜だ、と思った。気持ちの落ち込んでいた私にはソメイヨシノは圧倒的に華やかすぎたのだ。

翌年は普通に満開のソメイヨシノの並木道を堪能した。歌も詠んだ。今も山桜の方が好きだが、ソメイヨシノにも良い所があるのを知っている。

 

妖怪のごとき鬱蒼をにくめども散りゆく花は光そのもの

 

 
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雀始巣(ホームではなく)

雀始巣、すずめはじめてすくう。雀が巣作りを始める頃。

雀の巣をそういえば見たことがない。調べると、人の身長より高い位置の、屋根の下、庇の下、雨樋、信号機、電柱、交通標識、などに営巣するらしい。と書き出してみると、そういえば見たことあるかもしれない、という気もしてくる。標識の裏側に土っぽい草や枝が固まってくっついているのを見たような気がする。

 

シナントロープ、という言葉を初めて知る。人間の生活圏で、人間の生活にまつわるあれこれに依存して暮らす生き物のことをいうそうだ。カラスやツバメやハト(ドバト)、それからスズメもそう。人がいなくなれば、たとえそこに人工物が残されていても、そういうものたちはいなくなるらしい。

人間の生活環境に依存している、というくせにスズメは警戒心がとても強い。少し近づくとすぐ逃げるし、近づかなくても見ているだけで逃げるし、椿の木の中でチュンチュン賑やかにしているので姿を探して立ち止まると鳴き止む。そんな警戒しなくても、と悲しい。最近よく見かけるオシドリ(同じ個体)なんていくらでも写真撮らせてくれるのに、私の写真フォルダにはたぶんスズメの写真は一枚もない。毎日のように見かけているのに。

 

ところで鳥の巣は卵を産み雛を育てるためのもので、鳥たちは普段そこで寝起きしているわけではない、ということに初めて気がついた。巣、というと人間にとっての家、ホーム、というイメージだったが、違うのだ。繁殖期以外は巣など作らないし、親鳥はそこで寝たりしない(まれに巣をねぐらにする鳥もいるらしいが)。カップルの暮らす新居なんかをよく「愛の巣」と言うが、この文脈でいうと、単に愛し合うふたりが帰る家ということではなく、繁殖場所ということになってしまう。生々しい。蟻の巣や蜂の巣は住居だから、そちらの意味で使われている言葉だと思いたい。

 

ちなみに卵や雛のいる鳥の巣を勝手に撤去すると、鳥獣保護法違反になるらしい。卵を産む前ならセーフ、産卵されたら巣立ちまで見守るしかない。世の中には知らないことがたくさんあるなあと思いました(雑)


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よく見かけるオシドリさん

 

 

DODECAGON

DODECAGON

 

キリンは立って寝る、鳥は枝で寝る、とそういえば歌っていました(『Love is on line』)。巣では寝ない。

 

 

菜虫化蝶(生まれるなら秋がいい)

菜虫化蝶、なむしちょうとなる。青虫が羽化してモンシロチョウになる頃、とのこと。つい最近虫たちが動き出したばかりなのに、もう? と調べてみると、どうやら蛹の状態で越冬しているらしい。それが暖かくなってきて、そろそろね、と出てくるのがこの時期らしい。

 

ざっとWikipediaを見ただけでも、モンシロチョウの生態は知らないことばかりで面白かった。まず、紫外線に当てるとオスは黒、メスは白く見え、本人たちはこれで雌雄を識別していること。ここから秋まで4、5回、産卵と孵化、羽化のプロセスを繰り返す(つまり世代交代する)こと。卵の期間は一週間、青虫が約二週間、蛹は暖かい時期は一週間だが前述のように秋から冬は数ヶ月、そして蝶となってからは二、三週間でその間に産卵して死ぬ。

秋生まれの卵と春夏生まれの卵で一生の長さが何倍も違う。もし自分がなるなら、あわあわと成長して飛びはじめる春夏の個体より、蛹の中でゆっくりしてから外に出ていく冬の個体のほうがいいなあと思う。夏は天敵の蜂がブイブイ(というかブンブン)いわせているから、羽化してからも危険がいっぱいだし。ああ、でも青虫時代に食べるものは、春夏のほうが豊富かな…アブラナ科…(調べてる)いや秋でも大根とか白菜とかある。いける。

というわけで今の時期に飛びはじめるモンシロチョウは蛹でのんびり越冬した仲間たちです。まだ見かけていないけど、出会ったらちょっと親しみを感じてしまいそう。逆に夏のモンシロチョウを見たら、忙しないけどがんばれよ、と思うと思う。

 

 

話は変わって、前回更新したあたりから木々がみるみる芽吹きはじめるのを目の当たりにしている。草木芽生え出づる、と思いながら眺めている。見上げる木の枝の形がざわざわしている。今まで生きてきて、こんなに木の芽吹きを気にしていたことがなかったので、なんだか新鮮な感じ。

虫も一気に増えた。羽虫や小さな蜘蛛や蝿。新しそうな蟻の巣も見かける(調べたら蟻の巣は冬のあいだ出入りがないため自然にふさがり、春になるとそこを再び開けて外に出るというので、蟄虫啓戸、巣ごもり虫戸をひらくの「戸」ってこれか! そのまんまだ! ってなった)。

七十二候、やはり実態より少し先取りなのかなと感じるけど、だからこそ、次はこういうことが起こるのだ、という目で観察できるから、楽しい。

明日は春分

 

白い蝶 秋に生まれて冬を越え人生の春をいざ謳歌せよ

 
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芽吹きでざわざわしている木