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わたしの自意識

今週のお題「わたしの一足」、靴はさておき、引っかかるのは「わたし」である。

いろんなブログやエッセイなどの読み物を見ていて、一人称が「わたし」だと、一瞬、む、と思う。
嫌いというわけではないのだけど、ああ、この人は「わたし」の人なのだな、と思う。


一般的には、一人称は「私」と書かれることが多い。男性だと俺だったり僕だったりもするけど、女性の場合は。
若い子なら「あたし」もあるか。
なんにせよ、漢字で「私」が一般的である一人称を、敢えてひらがなにする、というところに、こだわりというか自意識が現れていると思うのだ。

「あたし」と「私」は音が違う。普段喋る時に「あたし」と言っている人が、文章でもそのまま「あたし」を使うのは、まあそうね、と思う。
でも「わたし」と「私」は同じだ。
何が違うかというと、字面。
ひらがなは、やわらかい。

文章を書いていて、ある単語を漢字にするかひらがなにするか、迷うことがある。私がよく迷うのは「時」と「頃」と「何」だ。「こと」はいつもひらがな。「今」は次に漢字がくればひらがな、ひらがながくれば漢字。「いま何時?」「今どこ?」だ。
たぶんみんな自分なりのルールや美意識やこだわりがあって、それを選んでいるのだと思う。

それが一人称に現れると、なぜだか美意識というより自意識に感じられてしまう。
自分そのものを表す言葉に、個性を出すというのは、セルフプロデュースなのかな、と思ってしまうのだ。

セルフプロデュースが悪いわけではない。私の中でセルフプロデュースといえばミッチー、及川光博なのだけど、彼はすばらしい。大好きです。

それでもなんだかもやっとしてしまう。


そうやってもやっとした時に作った短歌

やわらかいわたしを表現したいから一人称をひらがなで書く


でもふと気づいた。
私は「わたし」とは書けない。それは他ならぬ私の自意識が強すぎるからだ、と。

わたし、を目にした時に頭に浮かぶ「自意識」という言葉は、私自身の自意識のことだったのではないか。

私の中に、やわらかいわたしになりたい気持ちがないとは言えない。人にやさしく、穏やかに生きていけたら、それはすてきなことだ。
だけど、私が「わたし」と書いたらそれはもう私ではない、架空のわたしになってしまう。
やわらかいわたしになろうとして、「わたし」と書いてみた途端に、私はわたしの仮面を被って、なんだかやわらかいことを書きはじめてしまう気がする。
それはもはや私じゃない。
私は私だ、という自意識。

同じように、「私」と書いたらわたしではなく不特定多数の私になってしまう人、という人もいるのかもしれない、と思った。
文章を読んでその人となりを知るうちに、「わたし」が違和感なくなじんでくる人は実際にいて、そういう人は、やはり「私」と書くと、これはわたしではない、と思うのかもしれない。


というかもうわたしわたし書きすぎてわたしでなくたわしに見えてきている。架空のやわらかいたわし。この話、限界かも。


やわらかいわたしのふりでわたしたちなりたい自分になっていくのね


まあ、ふりから入っても、そのうち本当にそういうやわらかいわたしになれたら、それはとても良いことなんだろうな。


ちなみに、今週のお題における「わたし」は、「私の一足」より字面的に安定するからひらがなにしたのかな、と解釈しました。

今週のお題「わたしの一足」