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とっちゃんぼうやに関する考察

とっちゃんぼうや。

とっちゃんぼうやとは、ぼうや感のあるとっちゃん(大人)のことで、とっちゃんのようなぼうやではない。

日本語では、名詞がふたつ重なれば、先の名詞が後の名詞を修飾するのが普通だ。
アイロン台はアイロンをかけるための「台」で、透明人間は透明な「人間」、猫おばさんは猫に餌をやる「おばさん」であって、おばさんな猫ではない。 
ぼうやのような「とっちゃん」を表すなら、ぼっちゃんとうさん、となるのが自然ではないのか、という疑問。


後ろの名詞が前の名詞を修飾する複合語を一生懸命探したけど、なかなか思いつかない。  
唯一浮かんだのが、アンファン・テリブル、恐るべき子供、だけどこれはもともと日本語ではない。 
英語でも複合語だと、前が後ろを修飾するのが一般的だから、フランス語的な発想といえるのか、とっちゃんぼうや。 
とっちゃんぼうやのくせに。 


しかしふと、
絵本のような文脈なら、猫おばさん(エプロンつけてる)=おばさんな「猫」、が成立する
と気づく。 
これはどういうことだろう。


犬のおまわりさんを仮に複合語にしたら、犬巡査。これは犬な巡査であり、巡査な犬である。 
美人警官は美人な警官で、警官をしている美人。
おじいちゃん先生はおじいちゃんな先生で、先生をしているおじいちゃんだ。 

人(犬でも)の“属性がふたつ並んだ複合語”のとき、
主属性(もともとの要素)+副属性(肩書きなど)
の並びになる、と仮定できはしまいか。

美人警官は警官をやめても美人だ。 おじいちゃんは先生をやめてもおじいちゃん。ここでは時間経過は考えないことにする。

絵本の文脈でいう「猫おばさん」ならば、その「おばさん」はもはや職業のようなものだ。おばさん、という役割の猫。
転職すれば猫巡査にも猫先生にもなり得る。
でも猫であることは揺るぎない。絶対的に猫である。 

主属性(替えがきかない)+副属性(社会的な要素) 

この理屈でいけば、とっちゃんぼうやの「とっちゃん」が主属性、「ぼうや」は社会的要素、と考えられる。 
社会的にはぼうやな立ち位置であるとっちゃん。

まさにこれではないか!! 


ということを、二年ほど前にひとりで延々と考えていた。
だれにも共感してもらえなかったのでここに書きます。



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こちら、前々回のエントリの後に撮った、くちなしに蟻がついてる現場。この花にだけ、三匹もいた。