ご挨拶と、母体という容れ物のこと
あけましておめでとうございます。
去年の4月頃に開始し、妊娠してから放置ぎみになっていたところ、短歌の目さんのおかげで11月から再びやる気を取り戻してきたこのブログですが、今年も細々と続けていけたらなあと思っております。
来てくださる皆様、本当にありがとうございます。
皆様にとり今年が好ましい年でありますよう、お祈りしております。
こちらは出産を来月に控え、体重増加の恐怖と戦う日々であります。
年末から生クリーム菓子だの、餅(大好物)だの、煎餅だの呑気に食べていたら、一週間で2kg増えました。まあ驚いた。
前々回の検診で、私の前の人が体重のことでひどく怒られていたので、これは私も確実に怒られる。
それからは節制して、なんとか800g増まで落としたのですが、今回はそんな時に友人の言葉にむむっと思った話。
2kgも増えちゃった、どうしよう怒られる、という話を友達にすると、以下のようなことを言われた。
それはまずい、怒られるだけでなく子供にも影響があるかもしれない。子供のためだよ。食欲に負けるな。
もやもやした。
体重が急激に増えるとリスクが高まることは私もわかっているし、子供のためにがんばらなきゃなあ、とは思う。
でも、なんだろう、この違和感は。
寝ながらもやもやと考えていて、気づいた。
おそらく、言外に「子供のためだと思えばなんだってがんばれるよね!」というニュアンスを感じてしまったのだ。
そりゃあ、がんばりますよ、私だって。
でも、私の感覚では、「子供のために、しょうがないからがんばる」なのだ。
そんなポジティブにアドレナリン出しながらがんばれない。
妊娠してから、私は容れ物なのだな、とよく思う。
子供のために栄養を摂り、生魚や生卵などリスクのあるものは食べず、重い物は持たず、ここ最近は特に切迫早産ぎみのため、外出を控え、無理をせず、疲れればすぐ横になる。お腹が重くてあまり眠れないけど、それでも横になる。
今の私は子供のために存在しているのだと思う。
それは決して「あなたを守るために生まれてきたのよ」的な陶酔感ではなくて、今の私は単なる子供の容れ物、培養土に過ぎないのだ、という感覚。
子供の誕生はもちろん楽しみだ。楽しみで仕方ないと言ってもいい。毎日おなかに話しかけているし、生まれたら一緒にやりたいことや行きたい場所が山のようにある。
なので容れ物であることに嫌悪感はない。ただ、容れ物だなあと思うだけ。
でもそれを、母親ならば子供のためになんでもがんばれるのが当然、という感じで言われてしまうと、あなたは容れ物に過ぎないのよと人から言われているみたいで嫌なのだ。
母親であっても私は私であり、私には私の意思がある。
容れ物と思うのは私だけでよくないか。
今回の彼女も一児の母で、たぶん実際に、子供のためならがんばれると思ってやってきたのだろう。
それはきっととても正しいことだ。
だけど、正論は相手の口を塞ぐ。
友達だからこそ、良かれと思って言ってくれているのだろうけど、むしろ友達だからこそ、子供より私自身を気づかってもらえたら、うれしかったのになあと思う。
容れ物としての私ではなく、私自身を。
甘えてるのかもしれないけど。
これから先も、そういう正論、母親とは子育てとはかくあるべし論、とたくさん出会うのだろう。
「子供のためにしょうがないからがんばる」なんて、そんな考え方で母親になる資格なし、とか言われちゃうのかしら。
私も、父親とはかくあるべし、を夫に押しつけないように気をつけようと思う。
日の出の写真が見当たらなかったので何年も前の日没の写真です