マタニティブルー的なものを分析してみる

いよいよ臨月に突入しました。

 

夜になると謎の不安感で苦しくなり、これがマタニティブルーというものなのか、なんなのか。

楽しいこと、楽しみなことは山のようにある。それでも、これから始まる日々は、たぶんなにもかもが新しい。変化に不安はつきものだ、だから仕方のないことなのだ。

 

とはいえせっかくなので何が憂鬱なのか考えてみた。

そのうちひとつは、いいかげん大人にならなければいけないらしい、ということ。

30代半ばにもなって、大人になるも何もないだろう、というのはとりあえず置いておきます。

 

発端は、産後ひと月後のお宮参りに何を着ていくか、だった。

服は手持ちのものでなんとかすることにしたが、アクセサリーくらいは着けようかな、でも持っているのは友達の結婚式で着用したきらきらしたものか、猫モチーフのカジュアルなものか、なのでこの際、淡水パールのネックレスでも買おうかな、とネットであれこれ見ていたのだ。

目についたのが、小さめのバロックパールのもの。とてもかわいい。とても、好きだ。

でも、と踏みとどまる。

今後訪れる入園式だの入学式だの、さらには冠婚葬祭だの、のことを考えると、バロックでない普通のパールを買うべきなのではないか。

この年まで持たずに借りたりしてやり過ごしてきたが、そろそろ買うべきなのではないか。

 

そこで、冠婚葬祭にも適した普通のパール(といっても予算的に淡水ですが)を見始めたのだが、これが、まったくそそられないのだった。

欲しい、という感情が湧いてこない。

でもこっちを買うのが正しいのであろう。

正しいってなんだよ。なんなんだよ。

 

欲しい、好きだ、と思うものはこれからの私には必要なものではなく、必要なのは大して欲しくもないものであるということ。

それを必要としているのは私ではなく世間だ。

大人ならばそのくらい持っているべき、という誰が決めたかわからない常識。

大人なら、というそれだけならば無視してこられたが、これからはそこに、母親という肩書きが加わる。

そうなると、私ひとりの問題ではなくなってしまう。

私ひとりが非常識な大人であるとみなされるのは構わないが、子供が、非常識な母親の子、とみなされてしまうのは、避けたい。

母になるって、そういうことなのか。

守るものが増えるということは。

 

今、冷静に考えると、とりあえず普通のパール一本くらい持っててもいいんじゃないの、そんなめんどくさいこと考えずに、と思うのだけど、それを考えていたときは本当に憂鬱だった。

なにしろ、好きな言葉は反骨精神、と豪語してきた私だ。

それが、これからは同調圧力に屈して生きていくのか。

とうとうおまえもつまらない大人になっちまうのかい、てなもんだ。

 

ということで、この憂鬱は、生活の変化というより、私が変わってしまうこと、変わらなくてはいけないらしいことへの不安に由来していたことがわかった。

 

いや、まだ諦めるな。

見た目は大人のように取り繕っても、心だけは屈するな、忘れるな、今のこの、腑に落ちなさを。

欲しいものを諦めて欲しくないものを買う。そこに自覚的でいたいと思う。欲しくないものを欲しいと思い込んで、自分を騙すよりも。

これからも正直に葛藤して生きていくのだ。


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真夜中の薄暗がりの円い目が教えてくれる 私は私