款冬華(ふきのとうの水辺)

新しい候に入る前に更新できそうだったのに、子供の寝かしつけをしながら寝てしまいました。無念。

 

ひとつ前の候です。款冬華、ふきのはなさく。ふきのとう、つまり蕗の蕾が雪の下から顔を出す頃。

 

ふきのとうを摘んだことはありますか。私は子供の頃にあります。信州に母の実家があり(今は両親もその近くに住んでいる)毎年、長期休みのたびにそちらで過ごしていて、そんな中のある年、ほらこれがふきのとうだよ、と誰か(母か祖母か祖父か、祖父母なら方言なので先ほどのは意訳になります )が教えてくれた。残雪を足でざっざと除けると黄緑色の小さくみっちりとした花のような実のようなものが出てくる。あー、これはちょっと開きすぎだね、と誰かが言う。開くと美味しくないらしい。ざくざくした白い雪とその下の濡れた土、草、誰かの長靴。足元ばかり見ていた記憶。

冬休みではまだ雪が深くて地面にたどり着けないから、あれは春休みのはず。実際の旬は2月から3月だというし。

 

蕗は水の豊富な土地を好むという。私がふきのとうを教えてもらったのも水辺だった。ゆるやかな山の斜面にある畑には農業資材を置くための小屋があり、その裏には小さな池がある。小屋と杉林に挟まれているせいで、昼間でも薄暗く、足元は常にぬかるんでいる。そこがふきのとうの群生地だった。

その池に私は2回ほど落ちた。小学生の時だ。詳細は覚えていないが、落ちて、泣いた。

 

落ちたのはその池だけではない。小学校の校舎の前の広場にあったドーナツ型の池(たしか真ん中には二宮金次郎像があり、後に埋め立てられて花壇になった)、校舎裏の菜園やうさぎ小屋の合間にあるごく小さな池、川遊びをすれば飛び石から足を滑らし、公園のボートからも落ちた。

とにかくぼうっとした子供であった。運動神経も反射神経も悪いうえに、つねに何かを空想していて、心がそこになかった。そのくせ水辺が好きなので(水辺は空想の宝庫だ)やたらと近づく。たちが悪い。

その一連の水落の締めくくりが、ふきのとうの池(2回め)だった。たしか小学校5年生くらいだったと思う。また落ちた、と周囲は笑い話にするが、それがいっそう情けなくて、泣いた。なんでこんなに落ちるんだ。呪われてるのか。

それ以降、その池には近づかないようにした。近づけばまた落ちる自信があった。なるべく水辺には寄らないようにし、近づく際は細心の注意を払った。その甲斐あって、その後は一度も水には落ちていない。

 

水辺の楽しさを思い出したのは大学生の頃、サークルの合宿で川遊びした時だった。楽しかった。楽しすぎて、もう足を滑らせて転んでも構わないと思った。

それから現在に至るまで私は水辺が大好きで、許される水辺ならとりあえず靴を脱ぎたいし、それがだめならせめて手くらいは浸したい。さすがに30代後半になって、やめとくか…と思いとどまることも増えたけど、水辺で遊びたい気持ちは健在である。

これから子供が大きくなったら、子供が遊ぶのに便乗して私も水遊びできるのでは、と今から楽しみ。もちろんごく浅い水辺に限るし、これまで以上に細心の注意を払わねばならないけれど。

 

水際はこの世の間際 ふきのとう雪をひらいて手招きをする

 
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