牡丹華(わたしにないもの)

ひとつ前、4日までの七十二候、牡丹華、ぼたんはなさく。文字通り、牡丹の花が咲く頃。

 

私が初めて牡丹の花というものを意識したのは24歳の時だ。同棲生活が破綻して逃げこむように移り住んだ実家の庭に芍薬が咲いていた。たぶん芍薬、と母が言っていた気がする。たぶん言っていた、ではなく、「たぶん牡丹ではなく芍薬」。その時に、ふたつの植物がよく似ていること、どちらかが草であることを教わった。なので牡丹という花を意識したと言いながら見たのは芍薬である。牡丹とはこれに似た花なのか、という意味での意識。

前にもどこかで書いたかもしれないが、その頃まで私は植物にはほとんど興味がなく、小学生が知っている程度の花しか知らなかった。読書好きな子供だったので名前だけはいろいろと知っているのだが、実際にそれがどんな花であるのか、知らないし知ろうという気持ちもなかった。

初めて見る芍薬の花は惚れ惚れする華やかさだった。ゆたかな花びらをもつ大輪の花が、空を見上げるようにいくつも咲いていた、その堂々たる美しさ。きれいだなあ、と思った。精神的に疲弊していた私の目にそれはとても眩しかった。そうか、これが芍薬の花なのか。

 

美人を形容するのに、立てば芍薬、座れば牡丹、というので芍薬が木で牡丹が草かとなんとなく思っていたが、違った。牡丹のほうが木なのであった。

牡丹を実際に見たのはいつだろう。芍薬から遠くないうちにどこかで見たような気もするが、確実に記録に残っているのは、ある年の4月20日。日記に牡丹の記述があった。

 

朝から車で西新井大師へ、厄除けのお札をお返ししに行く。10時半頃に着く。駐車場は空いているが境内には意外と人がいる。屋台がたくさん出ている。でも午前中のせいか、皆あまりやる気がない。ちょうど花まつりの最中で、牡丹が満開。なんて大きい花。子供の頭くらいある。白、赤、赤紫、桃色の、ひらひらとハンカチのような花弁。
厄除けのお札の代わりに、小さな厄除け守りを買ってもらう。財布に入れる。

 

子供の頭くらいの大きな牡丹。

調べると牡丹の花の大きさは10〜20cmということだが、咲き乱れるさまざまな品種の牡丹はどれも本当に立派で、品評会かと思うほどだった。芍薬の方が馴染み深かった私は、こんな大きくなくていいよう、とたじろいだ。迫力が凄かった。数が多いこともあるのだろうが、実家の畑にぽんと生えていた芍薬にはない、圧があった。別名を富貴花というのもなるほどである。

 

↓牡丹園の牡丹
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↓こちらが実家の芍薬
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こう比べてみるとたしかに、芍薬は立ち姿、牡丹は座り姿、という感じがする。

 

 

大輪の牡丹 わたしにないものをすべて持ってた、奪っていった

 

約束は守られぬまま朽ちていく白鍵黒鍵緋色の牡丹

 

艶やかな花に俯き今もまだ君の不幸を願う、時々