蛙始鳴(歓びの歌)

5日から昨日までの七十二候、蛙始鳴、かわずはじめてなく。蛙が鳴きはじめる頃。

二十四節気では立夏。暦上は夏だ。と書きながら一昨日から寒い。しまったばかりの冬服を再び出して着ている。

 

蛙が出てくるのは啓蟄の頃、巣ごもり虫が戸を開いた3月上旬だが、しばらくは静かに過ごし、この頃になると繁殖のために鳴きはじめるということらしい。

4月半ばに帰省した際、すでに田んぼだか水路ではゲコゲコと蛙が鳴いていて、もう…? と思ったのだが、今年はやはり季節の進みが早いのだろうか。でもどうせあれでしょ、秋が来るのは例年通りか遅いくらいなんでしょ、夏が長くなるだけなんでしょ(夏嫌い)。

閑話休題

蛙の合唱も聞こえていたが、池にはおたまじゃくしの姿も見られた。ええと、蛙の鳴いている今が繁殖期、ということはこれから産卵する、だけどもうおたまじゃくしもいる。今いるおたまじゃくしはいつの卵から生まれたものなのだろう。

 

調べると、実際の産卵期間は蛙の種類によって異なり、冬に産むもの、春に産むもの、初夏に産むもの、さらにそこから秋まで長期に渡って産むもの、などいろいろいるらしい。なので一年じゅう何かしらのおたまじゃくしはいる。

ということは、いま鳴いている蛙といま泳いでいるおたまじゃくしは別種のものなのか、と思いきや、卵から孵化するのには一週間程度しかかからないらしい。これも種類によって違うのかもしれないが、一週間だとすれば、真っ先に繁殖を始めた蛙の卵がもう孵化した、ということも考えられる。これはもう、鳴いている蛙とおたまじゃくしをちゃんと観察して種類を定めないと結論の出せない話なのであった。

 

おたまじゃくしが蛙になるまでの期間もまちまちで、ウシガエルなんかは1、2年もかかり、おたまじゃくしのまま越冬するのだという。Wikipediaウシガエルのおたまじゃくしの写真があったが、なんというか悪い意味での手のひらサイズであった。でかい。池にこんなのがいたら絶対ヌシって呼ぶ。

 

子供の頃に蛙につまづいたことがある。小学生だっか中学生だったか。当時、中学校の裏手に祖父母の家があった。父の生家であるその家の前庭には木が鬱蒼と茂っていた。アーチ状に覆いかぶさる緑の下をくぐり、左手にはごく小さな池、正面に住居、右手の木々を抜けると畑があった。木が密に生えていたせいか、日陰の池のせいか、記憶の中の庭は湿っていて暗い。晴れた日にはそれなりに明るかったはずなのだが。しょっちゅう訪れていたのにぼんやりとしか庭の記憶がないのは、少し怖かったからだ。湿っていて暗い、その印象はおそらく幼心に感じたものがそのまま引き継がれてしまっているのだと思う。小さな庭なのに私の知らない場所がたくさんある、というか住居に向かうルート以外にはほとんど足を踏み入れた覚えがない。

夜になると庭はいっそう暗く、ほぼ暗闇となる。足元など見えない。目を凝らさなければ、そこに蛙がいたとしても見えない。

ぼごん、というか、ぐぼん、というか、なんとも言いがたい重く柔らかな感覚が爪先にあり、バランスを崩して前によろめいた。10cmはありそうな、なにかごつごつした黒っぽいものが動くのが見えた。鳥肌が全身をめぐる。かえるをけってしまった。恐ろしいことをしてしまったと思った。爪先がどろどろと(イメージ)気持ち悪い、蛙は無事か、潰れたりしていないか。呪われたらどうしよう。

たぶんヒキガエルだと誰かが言った。あの庭でそんな大きな蛙を見たことがなかった、むしろそんな大きな蛙自体かつて見たことがなかったので私は動揺しまくっていたのだが、親は大して驚きもせず、私の恐怖に寄り添ってもくれず、父の車で家に帰る間、私はひとりで蛙の呪いに怯えていた。なぜ呪われると思ったのかは今となってはよくわからない。大きな蛙に呪術性を感じていたのかもしれない。

 

それが私と大型カエルとのファーストコンタクトで、それ以来、大きな蛙は怖い。アマガエルは可愛いし手に載せても大丈夫、大きさが2cm以内ならたぶん触れるが、3cmになるとちょっとためらう。ヒキガエルは無理だ。まあこれは蹴っていなくても無理かもしれない。

 

先日散歩していると道路で5cmくらいの蛙が潰れていた。今日みたいな雨の日は張りきって道路に出てきていると思うので、どうか皆様、つまづかないよう足元にご注意ください。

 

皮膚に雨 地上で息ができる日のかえるのうたは歓びの歌


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むかし職場に現れた蛙(手は同僚)

 

 

ど根性ガエルになるところだったよ