竹笋生(竹と後悔)

竹笋生、たけのこしょうず。筍が生えてくる頃。

いまさら筍?と思ったらこの筍は孟宗竹ではなく、日本原産の真竹のことらしい。真竹の旬が今の時期。

住んでいるアパートの敷地の裏手にはちょっとした竹藪があり、春になると、そこから地下を這って進出してきた筍が横道の方に生え出てくる。去年は道のど真ん中に生えてきてうっかりつまづいたりしたが、今年はうまいこと端の茂みの中に生えてきたらしく、気づいた時には周りの木よりも長く長くなって、ゆらゆらと穂先を風に揺らしていた。ということは時期的にこれは孟宗竹であろう。

孟宗竹と真竹を見分けるには、節を見ることらしい。上の筒と下の筒(という表現が適当なのかどうか)が一本の節でつながっているのが孟宗竹、上下の筒にそれぞれ節があり、その間にゴムをはめたみたいな溝があるのが真竹。

 

竹といえば思い出すことがある。大学2年か3年の時、比較文化か何かの授業をとっていて、期末のレポートを書くのに、テーマは竹にしようと思ったのだ。東〜東南アジア圏における竹の利用についての比較。それを当時の彼氏に話すと、面白そう、と言ってくれた。その人は自分の専攻する分野には熱心だったが、私のとっている授業や課題に興味を示すのは珍しかったので、嬉しかった。自分のアイデアが認められたことがとても嬉しかった。

しかし、図書館で資料を探してきたものの、途中で面倒になって私はレポートを書くのをやめた。単位は捨てた。必修科目でもないし、別にいいや、と。

それを聞いた彼氏のがっかりした顔を見て、ああ、私はこういうとこがだめなんだよな、と思った。こういうところ、言ったことも実行せず、目標も持たず、すぐ楽な方へ流されるところ。興味関心をすぐ投げ出すところ。私もそんな自分が嫌だったが、積極的に変わっていこうという気概もなかった。そのまま怠惰で場当たり的な学生生活を送り、卒業前に彼氏とも別れ、何かをやりたいという情熱もないままフリーターになった。

あの時の出来事が、そういうすべてを象徴している気がする。

 

いろんなことに興味が出て、あれも知りたい、これも学びたい、と思うようになったのは大学を出て何年もしてからだ。言語、民俗、植物、気象、地理、地質。いちばん学べる環境にあった頃が、いちばん学ぶ意欲がなかった。いまさらすぎて普段は後悔することもないが、こうやって思い出してみると、なんでもう、おまえ、しっかりしろよおまえ、と当時の自分の頬をぐにょんぐにょんにしてやりたい気持ちにはなる。

 

でも、その反省があるからこそ、今こんなに知るのが楽しいのかも、とも思う。

二年前のまさに今の時期にタケノコについての記事を書いたのだけど、さっき読み返してみたら、知らなかった小さなことをひとつ知るだけで世界はちょっと面白く見える、と書いてあった。今もそう、だから私は今もこうやって七十二候に(遅れながらも)沿ってあれこれ調べながらブログを書いているんだな、と改めて思った次第。

 

竹よ竹 世界でいちばん美しく悲しいものを過去というのだ

 


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本文を書き終えて、あとは散歩がてら横道に生えてる件の竹の写真でも撮ってくるか、と思ってたら、竹はすでに切られた後だった。昨日の夕方まではあったのに。うまいこと人目を避けて成長したとはいえ、二階以上の高さまで伸びてしまうと気づかれないわけはないのだった。出る竹は切られる。なので先日撮ったコンクリートの虹です