蚕起食桑(蚕室の令嬢)

蚕起食桑、かいこおきてくわをはむ。蚕が目覚めて桑をどんどん食べる頃。

 

養蚕の歴史は三千年とも五千年ともいわれている。蚕は完全に家畜化された虫で、野生には存在しないし野生下では生きられないのだという。白くて目立つうえに敵から逃げる素早さも身を守る硬さもない、それどころか手足が弱くて枝にしがみついていられない。しかも羽化して蛾になっても飛べず、口が退化しているため食べることもできない。そういうふうに改良されてきたから。

改良。改良かあ、と思う。ここまで徹底的に野生から切り離すことを「改良」と表現するのは、ちょっとためらってしまう。牛だって鶏だって、家畜化されたものはみな品種改良の結果なのだが、それらとはちょっと違う、なにか、罪悪感のような苦しさ。

大半は成虫になる前に、繭をつくった時点で一生を終える(終わらされる)が、牛も鶏も豚も人間に益をなすために育てられるのは同じで、若いうちに屠られるものもいるだろうから、苦しいのはそこではない。それ自体はただもう、ありがとうございます、ありがたくいただかせていただきます、という気持ちだ。

では何か。たぶん、その存在が完全に人間の手に委ねられているという点がひとつと、あとは、大人になったらもう生きる必要がない、というのがショックなのだと思う。こども(幼虫つまり蚕)のうちは大切に大切にされるけど、大人(カイコガ)になってしまえば飛ぶことも食べることもない、交尾して産卵して死ぬだけで、それで必要十分だということ。ドラマチックなほどに絶望的な感じがする。それとも絶望的にドラマチックなのか。大人が生き残れない世界。

 

そういうふうに人間がしてきた、といっても、人間の管理下で育てられるうちに結果的にそうなっただけで、もしかしたらそれもひとつの適応なのかも、とも思う。虫の品種改良というものがどうやって行われるのか知らないのでなんとも言いがたいけど、何千年もの間、餌を自分でとりにいく必要がなく、敵もいなかったら、それはまあ外の世界では生きられない体になるだろうと思う。光の届かない深海に棲む生き物の目が退化するのと同じで。だって必要ないんだもの。

だとしても成虫になってから飛べない、食べない、というのはどういうことなのだろう。そこは人間の手が入ったのだろうか。たまたま現れた飛べない個体をここぞとばかりに繁殖させたりしたのだろうか。

それとも、幼虫時代にのんびり平和に暮らしすぎて、羽化したところで今さらがんばれない大人になってしまった、みたいなやつだろうか。

 

さっきからどうしても蚕を擬人化して想像してしまう。深窓の令嬢。とてもとても大切に育てられ、だけど美しいのは今だけ、大人になった自分には価値がないと思いこんでいる。体が弱く、いずれ長くは生きられない。ならば今の美しさを謳歌すべし、となるのか、だから何もかもどうでもいいと投げやりになるのか、できれば謳歌してほしいところではある。

 

深窓の令嬢と書いたが、実際に蚕はとても大切にされてきて、日本ではお蚕様とかオシラサマとか敬称付きで呼ばれていた地域も多い。生計を支える大事なものだから、とはよく言われているけど、白く柔らかい虫が美しい糸を吐くという神秘性や、それが人の手を借りなければ生きていけないというあやうさや心許なさも、全部ひっくるめたうえでのお蚕様なのだと思う。

 

実は大学の頃、文化人類学の授業の一環で、絹織物の産地に実習に行ったことがある。昔はどの家でも養蚕を行っていたが今では数軒を残すのみ、という場所。村を歩いて工房などで話を聞かせていただいた。のだが、申し訳ないほどにまったく記憶がない。細い水路と平行する道をひとりで歩いていたこと、小さな商店で熊肉の缶詰が売られていたことしか覚えていない。ひどい。今なら聞きたいことがたくさんあるのに。前回も書いたとおり、とにかく意欲のない学生だったのだ。かえすがえす、当時の自分に詰め寄って頬をぐにょんぐにょんである。

祖母の生家でも昔は養蚕をしていたらしい、と母から聞いた。なので鼠除けのために猫を飼っていたが、子猫が生まれると子供の自分が捨てに行かされた。当時のことだからたぶん水に沈めるとかさせられたんだと思う、だから猫が好きじゃないらしい、という話。

私が実家にいた頃、まだ祖母がぼけていなかった頃に、もっといろんな話を聞いてみたかったと思う。きりがないけど、思う。

 

その先は幸せですか 目を閉じてくるくる紡ぐ繭玉の夢

 

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