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ピクニックの歌

マナーとはなんぞや。
考えてみた。


マナーが悪いというのは、たとえば降りたい人がいるのにスマホに夢中で微動だにしない人。混んでいるのに足を組んで爪先を前に突き出している人。じろじろ見てくる人。
そういうのを見ると、ふん、と思う。
人に迷惑をかけたり、不快な思いをさせているのに、その自覚がない人、それに気づこうともしない人。

逆に、マナーが良いというのは、そういうことをしないこと。
何か行動するのではなく、しないこと、ではなかろうか。
マナーが良いとは、積極的な働きかけではなく、消極的な、状態を指すもの。
席を譲るのはマナーというより善意で、注意するのは正義感だ。


でも迷惑とか不快なんていうのは、個人的で曖昧なものだ。
子供が泣いていても私は迷惑とは思わないけど、それを迷惑だったり不快に思う人もいるのだろう。



仕事帰りの電車に、子供をベビーカーに乗せた若いお母さんが乗ってきた。
満員というほどではないけど、そこそこ混んでいるので、はらはらする。世間はベビーカーに厳しいと聞くし、大丈夫かな、と。
はらはらしていたら、お母さんは、今日も新しいお歌を覚えたね、とやさしく子供に話しかけ、それから子供と一緒に歌いはじめた。

びっくりした。
勇者だ。

ピクニック、ピクニック、と子供と声を合わせて繰り返し歌う。大きな声ではないが、会社帰りのサラリーマンが多数を占める静かな車内、殺伐とした空間にふわんと響く楽しげな歌声。
たくさんお歌うたえるようになったね、すごいね、とお母さん。

文句を言う人も、舌打ちをする人も、危害を加える人もいなかった。うるさいな、と思っている人はいたのかもしれない。でも何事も起きず、親子はふたつ先の駅で電車を降りた。
私も降りた。
階段を上りながら、ピクニック、ピクニック、と夫が小声で歌う。私の頭の中も、ピクニック、ピクニックのリフレインだ。


お母さんに関しては、マナーが悪い、車内で歌うなんて非常識、と思う人もいるのだと思う。
子供にかける声は本当にやさしく、愛情をもって接しているのが伝わってきたから、私は嫌な印象はぜんぜん持たなかったけど。まあびっくりはしたけど。

それより周りの対応だ。
だれも親子を傷つけようとしなかった。
マナーってこういうことなのかもしれない、と思う。
好意的でなくてもいい。うるさいけど我慢した、でもいい。無関心でもいい。
疲れや苛立ちを振りかざして、むやみに人を傷つけないこと。


うん、やっぱり、マナーが良いっていうのは行動ではなく状態だな。

なにもしないという、立派な思いやりであろうよ。