桃始笑(その花は)

桃始笑、ももはじめてさく。桃の花が咲きはじめる頃。

少し離れたところにピンク色の花が見えたとき、紅梅かな? 桃かな? 桜ではないよね? と思ってそのままになることが多いので、今回は桃と梅の見分け方を調べてみた。

 

まずは花、桃の花びらは先端のすぼまった楕円形で、梅は丸い。

どちらも枝に直接付いて咲くが、桃は枝全体に、梅は根本の方に付きやすい。(ちなみに桜は枝から分岐した花枝に付く)

桃の幹はなめらか、梅はごつごつしている。

そして、桃は花と葉が同時に出るが、梅は花の後に葉が出てくる。これはわかりやすいかもしれない。

以上をふまえて、私が今まで撮ってきた花の写真を仕分けしていこうと思います。

 

まずこちら
f:id:macskak:20180315004620j:image

これは桃。むかし山梨に桃を見に行った時に撮影したので間違いなく桃。たしかに花びらが先の細い楕円形


f:id:macskak:20180315004750j:image

これもその時の写真、なので桃のはずなんだけど幹はけっこうごつごつしているので不安になる


f:id:macskak:20180315005115j:image

これもその時の桃、同時に葉が出ているのがよくわかる


f:id:macskak:20180315005242j:image

これはたぶん紅梅


f:id:macskak:20180315005308j:image

これも紅梅


f:id:macskak:20180315005350j:image

これは葉が出ているから桃?


f:id:macskak:20180315005644j:image

これは八重桜


f:id:macskak:20180315005710j:image

こちらは桃でも梅でも桜でもなく杏。長野の更埴というところ


f:id:macskak:20180315005945j:image

同上。杏の花びらは丸く、幹や枝が赤っぽいのが見分けポイントのようです(夕方の撮影のため暗くて枝の色がわからない)


f:id:macskak:20180315005201j:image

ということは枝が赤っぽいこれも杏ではなかろうか


f:id:macskak:20180315010936j:image

これは梅


f:id:macskak:20180315012529j:image

幹がごつごつのこれも梅


f:id:macskak:20180315011217j:image

これは花海棠。好き

 

なんとなくわかってきたような、そうでもないような。ここまでやっても結局、遠目に見ただけでは「梅かな? 桃かな? いやむしろ杏?」のままだろうなという気がする。

 

ちなみにこれら画像はすべてGoogleフォトで「桜」で検索して出てきたものです。むずかしいよね、花の同定

 

梅の花ひと足先に香をひらき足もとに降る水玉模様

 

 

草木萌動から蟄虫啓戸(地面から春)

本日Twitterのタイムラインで「啓蟄」の二文字を見て、え…嘘でしょ? と慌てて七十二候を確認した私です、こんばんは。二日くらいどこかに落としてきた気分。完全に一候遅れループに入ってしまった。なのでもうまとめてやります。二十四節気またいでるけど気にしない、もう気にしない。

 

ひとつ前が、草木萌動、そうもくめばえいずる。草木が芽生えはじめる頃。

そうもくめばえいずる。まさに春、という響き。足元には小さな草がどんどん生え、丈を伸ばし、花をつけている。オオイヌノフグリホトケノザ、それからごく小さな白い花(ノミノツヅリ?)、ハナニラもひとつだけ咲いているのを見かけた。日々散歩していると、木の根元から、ベンチの下から、じわじわと草が陣地を広げてきているのがわかる。

が、草木の「木」の方はまだまだ冬と変わらないように見える。もちろん梅は咲いたし桜の花芽も膨らんできているのだけど、落葉した木に新芽が芽吹いている様子はほとんど見られない。雪柳の細い枝に少しずつ黄緑色が見えるようになったくらい。林の中を歩いても、見上げれば枯れた枝ばかりだし、足元は積もった落ち葉で、全体的に薄茶色のままだ。

でも「草木萌動」という字面は、なんだか、草木のその体の中でエネルギーがうずうずしている感じがする。うずうずと外に出るタイミングをうかがっている感じ。見えないだけで、たぶん新芽はすぐそこまできているのだと思う。

 

続いて啓蟄の初候、蟄虫啓戸、すごもりむしとをひらく。暖かくなって地中にこもっていた虫が出てくる頃。

戸をひらく、というのがいい。小さな生き物が地面にある戸を開けて、やあ春だね、と出てくるのだ。

実感としてはその通りで、確かに最近、虫が飛びはじめた。蚊柱ほどではないけど、小さな虫が数匹まとまって、くるくると飛び交っているのを見かける。と書きながら気づく。もしかして、最近やたらとスズメを見かけるのもそのせいなのか。スズメは冬にもいたが、このところやけに多いし、川辺の草の上や常緑樹の枝の合間をアクティブに動いている。もしかしてあれは虫を捕まえているのか。単純に暖かくなったから元気なだけか。

 

二十四節気の雨水の初候に、土脉潤起、雨が降って土が潤う、というのがあった。

そこに続く候を見ていくと、霞始靆では土から立ちのぼる水蒸気で霞が生まれ、草木萌動では土の水分を得て草木が芽生え、蟄虫啓戸においては土から虫や蛙が出てくる、というふうに、土を起点として春が動いているのに気づく。偶然なのだろうか。それとも、母なる大地、大地母神のイメージなのだろうか。春は始まりの季節だから。

 

きみどりは生命の色 ひたひたと足元から春が生まれる

 

 

f:id:macskak:20180306234520j:image

今回、仮説めいた話ばかりになってしまったな

 

霞始靆(一候遅れ)

日付が変わってしまったので前回の七十二候。

 

霞始靆、かすみはじめてたなびく。霞がたなびきはじめる頃。

霞とは、空気中の水分が冷えて細かい水滴になり、空気の中をふよふよしている状態。それが春に現れやすいのは、前候で出てきたように土が水を含んでそこから蒸発したり、次候で出てくるように植物がいきいきとしだして葉っぱから水を蒸散したりするのに加え、昼夜の寒暖差が大きくなるためらしい。

 

この候へ移行した24日は、よく晴れて暖かくて、遠くの空が霞んでいた。晴れは晴れでも冬晴れのクリアな感じとは違って、どこかぼんやりした晴れ。青ではなく水色。これがまさに春の空。

毎年、春だなあ、と思うポイントはいくつもあるけど、そのうちのひとつが、冬に見えていた富士山が見えなくなることだ。冬の晴れた朝にはそこにあったはずの富士山が、どんなに晴れていても見えなくなる。春霞のせいなのか、黄砂のせいなのか、両方なのか。

春は好きだが、富士山が見えなくなるのは寂しいし、花粉や黄砂が飛ぶので外出や洗濯に気を遣うのも、いきなり暑い日がくるのも、つらい。この3点に直面すると、やっぱり冬のほうが好きかな…と思う。関東では雪国の過酷さもないし。

ただ、淡くくすんだ水色の空に、ほわほわと輪郭のにじんだやわらかな雲が浮かんでいるのは、好き。これも春ならではだと思う。

どの季節も好きなことと嫌いなことがあるけど、なるべく好きなことを見つけていきたい。七十二候を追うことがそれにつながればいいと思う。

 

白梅に紅梅、椿、春霞 こんな季節にきみは生まれた


f:id:macskak:20180301014220j:image

河津桜を見てきました(子供を抱きながらの撮影は難しい)

 

 

土脉潤起(それから獺祭魚)

土脉潤起、つちのしょううるおいおこる。 雨が降って土が潤いはじめる。二十四節気は雨水。これを書いている今日、関東各地でまた雪が降ったらしいけど、こちらではあられ混じりの雨で、パウダービーズのような白くてごく小さなあられがアスファルトの上をぴょんぴょん跳ねていた。傘の上でしきりに弾む音もにぎやか。

 

脉は脈の俗字、ということは水脈、鉱脈、の流れで土脈ということになるのか。ひとすじに連なる土とはどんなものだろう。それとも、水を含んで潤っていく様子が、土が脈打つよう、ということなのかもしれない。

干し椎茸にせよ、高野豆腐にせよ、乾いたものが再び水を得てふくらむとき、そこには甦りのイメージがある。乾いた土が水を得てふくらめば、植物も育つ。乾いたものたちは水を含んで息を吹き返すのだ。

 

日本の七十二候は中国由来のものを日本に合わせて調整したもので、中国版の七十二候では現在の候は「獺祭魚」となる。かわうそが捕らえた魚を食べるときに目の前に並べる、その様子を獺祭というのだ、と何年か前に飲み屋で友達が教えてくれた。日記を辿ってみたら6年前の夏だった。当時はまだ今のようにメディアで獺祭の名前を目にすることもなくて(私が疎かっただけかもしれない)、その後あちこちで見聞きするたびに彼女を思い出した。透明な酒の入ったグラスと、細い指。

私は彼女のことが大好きで、高校時代からずっと憧れていた。同級生で友達なんだけど、憧れ。本当にすてきな人なの。なので今回は敢えての中国版、かわうそについて調べてみる。

 

かわうその祭りを想像したときに思い浮かぶのは、けっこう大きくて野性味あふれる姿なので、よくテレビで見かけるコツメカワウソがカワウソだということには、調べはじめるまで思い至らなかった。名前にカワウソって入っているのに。あれはカワウソ界の最小種らしい(ちなみにカワウソ亜科ツメナシカワウソ属所属、ツメナシなのにコツメとはこれいかに)。

そして驚いたのが、ラッコがカワウソの一種だということ。カワウソ亜科ラッコ属。そういえば最近読んだ梨木香歩『海うそ』に、海うそとはラッコのことではないか、というくだりがあった。カワウソは川にいるから川うそ、海にいる海うそはラッコ。なんとなく似ているからとしか思っていなかったが、本当にどちらもカワウソだったとは。

 

カワウソは狐や狸のように人を化かすだとか、河童のモデルだとか、いやむしろ河童の一種だとかいわれて、各地の民話で活躍しているらしい。このカワウソの「祭り」はワッショイなフェスティバルではなく、人間が先祖を祀るためにお供え物をする様子に似ているからということなので「祀り」に近い。本当に魚を並べて祭りをするなら、妖怪のように思われても仕方ないと思う。そんな宗教的儀式、目撃したら驚くもの。人が入っているのかと思うもの。 

日本では絶滅したとされているが、実はひっそりと生きている可能性がある、というところも妖怪っぽい。姿を見せないだけで山の中にほそぼそと暮らしている。それっぽいのが目撃されたけど本当にそうか確証がもてない。そういう感じ、とてもいい。

 

かわうそのご先祖様へほそぼそとやっております 春の雪です

 
f:id:macskak:20180223010718j:image

春がどんどん増える

 

となりのトトロ [Blu-ray]

となりのトトロ [Blu-ray]

 

昔からジブリ作品ではトトロが一番(か二番めに)好き。日常の中にファンタジーの可能性を感じられるのが良いのです

 

 

魚上氷(めだかのめざめ)

間に合いませんでした。昨日までの七十二候、魚上氷やります。

魚上氷、うおこおりをいずる。水がぬるみ、割れた氷のあいだから魚が跳びはねる頃、とのこと。

跳びはねる、とはまたずいぶんと陽気な感じがする。ヒャッホウである。トビウオのように飛翔するのではなく跳びはねる魚というのはけっこういるようで、体に付いた寄生虫を落とすとか、敵から逃げるとか、餌を捕るためとか、いろいろあるらしい。ほんの少しだけ跳ねて水面に体を現すくらいなら、たぶん私も何度かは見たことがある、気がする。

 

氷が融けて魚が動きだす、というので思い出すのは、母が話してくれたメダカの話だ。

母は信州の山間部で育った。冬は雪の中をみんなで歩いて学校へ行く。池も小川も凍っている。小川にはメダカがいて、それも冬になると氷の中に閉じ込められてしまうが、春になって氷が融けると何食わぬ感じですうっと泳ぎだす、それが不思議だった、という話。

ほんとに? と思う。私の母はちょっと適当なところがあって、言ったことも聞いたこともよく忘れるし、記憶違いなんかも多い。ほんとかな、と思いつつもその話は印象的だった。本当にそうなら、コールドスリープだ。SFの世界だ。メダカのSF。

 

というわけでこの機会に調べてみた。

検索してみると、出てくるのはほとんど個人ブログか知恵袋的なものばかりで、メダカは凍った川や池や水瓶でも越冬するけれど、それは水の底の凍っていないところでじっとして冬をやりすごしているだけ、さすがにメダカ自身が凍ったら死ぬ、という話が主流。しかし中には、完全に氷漬けになっても適切に解凍されれば復活する、という話も出てきた。出てきたがあくまで少数のうえ、知恵袋情報なので信頼性は微妙…母の思い出話と同じくらい微妙。

いや、だけど、「メダカ自身が凍ったら死ぬ」と言っている人は、「氷漬けになったメダカが蘇る」のを見たことがないだけ、とも言える。凍ったら100%死ぬとは限らない、蘇ることだってあるかもしれない。どちらかというと蘇る方を信じたい。少なくとも母は見たと言っているのだし、そっちの方が夢がある。

氷の中で眠って春を待つメダカ。

いつか見てみたい、自然な条件下で、氷の中のメダカが動き出す瞬間。

 

天井の氷は融けて空になる 空を映してふるえる鱗


f:id:macskak:20180219111941j:image

 

 

 

黄鴬睍睆(とりとめない鳥の話)

今日まで? 明日までかな? 黄鴬睍睆、うぐいすなく。ウグイスが鳴はじめる頃とのこと。

春告鳥、うぐいす。本州では2月下旬から3月上旬に鳴きはじめることが多いらしいので、この時期に鳴いていたらちょっとせっかちさん。

 

「迷いながらだっていいから歩こうぜ」今年最初の鶯が鳴く

 

という歌をずいぶん前に作った覚えがあって、確認したら2009年3月9日。朝、会社に行こうと玄関のドアを開けた途端、ホー…ホケッキョ、とまだぎこちないウグイスの声が聞こえた。東京の普通の住宅街でこの声は完全に不意打ちだった。理由は忘れたけどなんとなくくさくさしていて、でもその声を聞いたら、なんだよ春かよ、まったくもう、と少し楽しくなってしまった。しょうがない、やるしかないのだ、と思った。

 

ウグイスは春のイメージだけど、夏頃まで鳴いている。むしろ夏のほうが鳴き方が上手い。

ウグイスは秋冬を人里近くで過ごし、早春になるとあのホーホケキョを練習し、それから山に帰って初夏の繁殖期を迎える。あのホーホケキョは巣を守る雄が「ここはわしらの縄張りやで」と宣言する意味で鳴いているのだという。だから山に住んでいた頃は夏によく鳴き声が聞こえていたのだ。ずいぶん遅い時期に鳴くなあと思っていた。

毎年、鳴きはじめた頃のウグイスは鳴き方が下手で、鳴いているうちにだんだん上手になる。秋から冬にはあの鳴き方をしないので、半年もやらないでいると下手になるらしい、というのを読んで、あーわかる、と思う。田舎で車通勤をしていた頃、毎日車内で大声で歌っていたのに、何年かして久しぶりに車内で歌ってみたら全然声が出なくて驚いたのだ。特に高音域。完全に喉が閉じている。これは相当練習しないと取り戻せない。ウグイスと違って取り戻す必要もないのでそのままにしているけど。

 

話は変わるが、いま住んでいるところの近くには水路に沿った緑道があって、そこを散歩していると、立派な望遠レンズ付のカメラを手にしたバードウォッチャーとよく出会う。林と畑あるいは民家に挟まれたこの小道にはさまざまな鳥がやってくる。この1年で出会った鳥を思いつくまま挙げてみると、カラス、ハト、キジバト、スズメ、ハクセキレイムクドリヒヨドリコサギアオサギゴイサギメジロアオジエナガコゲラシジュウカラカワセミカルガモオシドリ、少し先の公園でジョウビタキ、道路を挟んで向かいの薮でコジュケイ。あとはいつも木の中に数羽いるけど近づくとすぐ隠れてしまって姿を見せてくれない謎の鳥(だれ?)。すべて徒歩15分圏内で遭遇したもの。充実している。

このうちいくつかの名前は、散歩中に出会ったバードウォッチャーに教えてもらった。バードウォッチャーは何人かいて、みな中年以降の男性なのだが、私が鳥を見ているところに通りかかったり、何人かで鳥を見て話しているところに私が通りかかったりすると、あれはゴイサギだね、あれはオシドリだよ、とさらりと教えてくれるのでありがたい。もう少し行ったところにカルガモの親子がいたよ、などの情報提供もしてくれる。バードウォッチャーズは鳥を見る人にやさしい。

 

しかしこの緑道で私はウグイスを見たことがない。声も聞いていない。というのはおそらく、去年の2月下旬から3月は出産直後で完全に引きこもっていたためだ。あれだけいろんな鳥が来ていて、いないはずがない。と思う。

今年はもう、がんがん歩く。こっちから迎えにいく勢い。いつ初鳴きが聞けるのか、楽しみにしている。

 

春告鳥なきそめるとき静寂はほどけてひらく小さな扉

 
f:id:macskak:20180212233332j:image

足元はまさに早春

 

参考資料:ウグイス|日本の鳥百科|サントリーの愛鳥活動

いつも鳥の名前を調べるのにお世話になっています

 

東風解凍(春のよろこび)

東風解凍、はるかぜこおりをとく、春風が氷を融かしはじめる頃。まさに立春、というストレートさ。新年という感じで気持ちがいい。

 

先日の大雪はほとんど解け、日陰にわずかに残るのみとなった。晴れてきらきらと雪が解けていくのを見ていると、春だ、と思う。まだ2月の頭なのに、まだこれから雪も降るかもしれないのに、明るい雪解けの風景の中を歩きながら、このまま春になるのだと錯覚しそうになる。いや、暦の上では春なので決して間違ってはいないのだけど。

 

こんなにも雪解けに春を感じてしまうのは、おそらく雪国に住んで最初の春の体験が影響している。

信州に住み始めた年の冬は雪が多かった。始めて雪国で過ごす冬、という補正も入っているのかもしれないが、そこで生まれ育って今も住んでいる母が、あの年は雪が多かったと言うくらいだからやはり多かったのだと思う。

その年は親が別の場所で宿業を始めていたため、一軒家で弟と二人暮らしをしていた。朝起きて、車にたどり着くために雪かき、車を掘り出してエンジンをかけ、車の前の雪をかいてから出勤。帰宅して車を駐めて、また玄関までの雪をかいて家に入る、という生活。大雪で停電したり断水したりもした。とにかく雪の中にいた。真っ白な景色の中にいた。

そんな3月半ばのある日、ドライブ帰りに隣の村を走っていると、粉雪がちらつく中にふっと光が差して、あ、と思う。同じ光のようでいて、確実に何かが違った。それは春の光だった。

春が来るのだ。

それから休日のたびに春を求めて車を走らせた。家の周りはまだまだ冬だけど、1時間も走れば辺りは春だった。地面が現れ、梅が咲き始める。桜が咲き始める。風景が淡い光の色になる。

世界が生まれ変わるような感覚だった。

あんなに鮮烈に春がうれしかったのはその年だけだったけど、あの感覚は今も身体に残っている。だから今も、雪が解けて地面が見えてくると、うわあ春、と思ってしまうのだと思う。

それだけでなく、実際に光が春の光なのかもしれないけど、冬でも晴天続きの関東平野に住んでると、そのあたりの感覚は鈍くなっている感じだ。いや、もしかしたら私が春と思ったのも、私の目が春の光を察知したのかもしれない。だとしたらうれしい。

 

立つ春に鈍色の雲ざわざわと逃がした鬼をおうちへ帰す

 

 
f:id:macskak:20180205114831j:image

 (これは先週の様子)

 

 

新装版 ムーミン谷の冬 (講談社文庫)

新装版 ムーミン谷の冬 (講談社文庫)

 

 

↑最後のシーンを読むたび春の喜びを思い出してぞくぞくします