桜始開(一候遅れのいまさら)

桜始開、さくらはじめてひらく。桜の花が咲きはじめる頃。

一候遅れでぐだぐだだけど、この候に切り替わった頃、私の周りでもまさに桜が咲きだした。去年の日記では4月4日に三分咲きと書いてあるので、去年より10日ほど早いのか。しかも去年は同じ場所に植えられているソメイヨシノの一群が盛りを過ぎてからベニシダレ(たぶん)の一群が咲きだしたのに、今年はほぼ同時に満開を迎えた。時期がずれるのと同時に咲くのとどちらが標準なのかはもう何年か見てみないとわからないが、とにかく今年は遠目に見ても豪華である。華やかである。

というわけで毎日、時には午前と午後の二回、桜を眺めに散歩する日々だった。ブログも書かずに。

 

梅が咲きはじめる頃はまだ余裕がある。そこから地面にオオイヌノフグリホトケノザ、と咲きはじめ、ハナニラ、花大根、見上げれば辛夷、と来たあたりで一気に春が、というか花が加速する。木蓮、雪柳、シデコブシ、寒緋桜、ミモザ沈丁花、足元にはスミレ、タンポポ、と辺りが花だらけになる。そうなると焦る。ああ、咲いちゃった、どうしよう、散る前にちゃんと見ておかねば、と思う。やたらと散歩が増える。

そこに桜が咲くともうどうしようもなくなる。すぐに散ってしまうのがわかっているのもあるし、咲き始めから満開になって散るまで、日に日に様相を変えていくので、どの姿も見逃したくないと思ってしまうのだ。貧乏性なのだと思う。

しかし桜の名所だとかに出かけることはなく、愛でるのは近場の桜。いつも通る道にある桜の木が、蕾が膨らんで咲いて散って葉桜になる、までを見届けるのが良い。

今朝、明け方に目が覚めたらごうごうと風の音がしていて、ああ今ごろあちこちで花吹雪になっているのだろうな、おそらくは月明かりの下で、と思ったら外に出たくてうずうずしたけど、隣で子供が寝ているので我慢した。今日は用事があっていつもの桜を見に行けていないので、もうだいぶ散ってしまったろうか、と少し寂しい。

 

そんな桜好きな私だが、何年か前、ちょっと精神的にしんどかった時期は、桜の季節が憂鬱だった。その時に近くにあった桜といえばソメイヨシノ一択で、川沿いに何キロにも渡って植えられた桜はみな枝を川に向かって低く伸ばし、満開の時期はそれは見事なものだった。が、その年はそれが嫌だった。強制的に冬を終わらせる春を傲慢だと思った。ソメイヨシノ自体、クローンだし無闇に花ばかり多くて偉そう、とあまりいい印象がなかったのもある。

その年は目を逸らすようにしてソメイヨシノをやり過ごし、通勤路の民家の八重桜が咲いた時に初めて、ああ、桜だ、と思った。気持ちの落ち込んでいた私にはソメイヨシノは圧倒的に華やかすぎたのだ。

翌年は普通に満開のソメイヨシノの並木道を堪能した。歌も詠んだ。今も山桜の方が好きだが、ソメイヨシノにも良い所があるのを知っている。

 

妖怪のごとき鬱蒼をにくめども散りゆく花は光そのもの

 

 
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雀始巣(ホームではなく)

雀始巣、すずめはじめてすくう。雀が巣作りを始める頃。

雀の巣をそういえば見たことがない。調べると、人の身長より高い位置の、屋根の下、庇の下、雨樋、信号機、電柱、交通標識、などに営巣するらしい。と書き出してみると、そういえば見たことあるかもしれない、という気もしてくる。標識の裏側に土っぽい草や枝が固まってくっついているのを見たような気がする。

 

シナントロープ、という言葉を初めて知る。人間の生活圏で、人間の生活にまつわるあれこれに依存して暮らす生き物のことをいうそうだ。カラスやツバメやハト(ドバト)、それからスズメもそう。人がいなくなれば、たとえそこに人工物が残されていても、そういうものたちはいなくなるらしい。

人間の生活環境に依存している、というくせにスズメは警戒心がとても強い。少し近づくとすぐ逃げるし、近づかなくても見ているだけで逃げるし、椿の木の中でチュンチュン賑やかにしているので姿を探して立ち止まると鳴き止む。そんな警戒しなくても、と悲しい。最近よく見かけるオシドリ(同じ個体)なんていくらでも写真撮らせてくれるのに、私の写真フォルダにはたぶんスズメの写真は一枚もない。毎日のように見かけているのに。

 

ところで鳥の巣は卵を産み雛を育てるためのもので、鳥たちは普段そこで寝起きしているわけではない、ということに初めて気がついた。巣、というと人間にとっての家、ホーム、というイメージだったが、違うのだ。繁殖期以外は巣など作らないし、親鳥はそこで寝たりしない(まれに巣をねぐらにする鳥もいるらしいが)。カップルの暮らす新居なんかをよく「愛の巣」と言うが、この文脈でいうと、単に愛し合うふたりが帰る家ということではなく、繁殖場所ということになってしまう。生々しい。蟻の巣や蜂の巣は住居だから、そちらの意味で使われている言葉だと思いたい。

 

ちなみに卵や雛のいる鳥の巣を勝手に撤去すると、鳥獣保護法違反になるらしい。卵を産む前ならセーフ、産卵されたら巣立ちまで見守るしかない。世の中には知らないことがたくさんあるなあと思いました(雑)


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よく見かけるオシドリさん

 

 

DODECAGON

DODECAGON

 

キリンは立って寝る、鳥は枝で寝る、とそういえば歌っていました(『Love is on line』)。巣では寝ない。

 

 

菜虫化蝶(生まれるなら秋がいい)

菜虫化蝶、なむしちょうとなる。青虫が羽化してモンシロチョウになる頃、とのこと。つい最近虫たちが動き出したばかりなのに、もう? と調べてみると、どうやら蛹の状態で越冬しているらしい。それが暖かくなってきて、そろそろね、と出てくるのがこの時期らしい。

 

ざっとWikipediaを見ただけでも、モンシロチョウの生態は知らないことばかりで面白かった。まず、紫外線に当てるとオスは黒、メスは白く見え、本人たちはこれで雌雄を識別していること。ここから秋まで4、5回、産卵と孵化、羽化のプロセスを繰り返す(つまり世代交代する)こと。卵の期間は一週間、青虫が約二週間、蛹は暖かい時期は一週間だが前述のように秋から冬は数ヶ月、そして蝶となってからは二、三週間でその間に産卵して死ぬ。

秋生まれの卵と春夏生まれの卵で一生の長さが何倍も違う。もし自分がなるなら、あわあわと成長して飛びはじめる春夏の個体より、蛹の中でゆっくりしてから外に出ていく冬の個体のほうがいいなあと思う。夏は天敵の蜂がブイブイ(というかブンブン)いわせているから、羽化してからも危険がいっぱいだし。ああ、でも青虫時代に食べるものは、春夏のほうが豊富かな…アブラナ科…(調べてる)いや秋でも大根とか白菜とかある。いける。

というわけで今の時期に飛びはじめるモンシロチョウは蛹でのんびり越冬した仲間たちです。まだ見かけていないけど、出会ったらちょっと親しみを感じてしまいそう。逆に夏のモンシロチョウを見たら、忙しないけどがんばれよ、と思うと思う。

 

 

話は変わって、前回更新したあたりから木々がみるみる芽吹きはじめるのを目の当たりにしている。草木芽生え出づる、と思いながら眺めている。見上げる木の枝の形がざわざわしている。今まで生きてきて、こんなに木の芽吹きを気にしていたことがなかったので、なんだか新鮮な感じ。

虫も一気に増えた。羽虫や小さな蜘蛛や蝿。新しそうな蟻の巣も見かける(調べたら蟻の巣は冬のあいだ出入りがないため自然にふさがり、春になるとそこを再び開けて外に出るというので、蟄虫啓戸、巣ごもり虫戸をひらくの「戸」ってこれか! そのまんまだ! ってなった)。

七十二候、やはり実態より少し先取りなのかなと感じるけど、だからこそ、次はこういうことが起こるのだ、という目で観察できるから、楽しい。

明日は春分

 

白い蝶 秋に生まれて冬を越え人生の春をいざ謳歌せよ

 
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芽吹きでざわざわしている木

 

桃始笑(その花は)

桃始笑、ももはじめてさく。桃の花が咲きはじめる頃。

少し離れたところにピンク色の花が見えたとき、紅梅かな? 桃かな? 桜ではないよね? と思ってそのままになることが多いので、今回は桃と梅の見分け方を調べてみた。

 

まずは花、桃の花びらは先端のすぼまった楕円形で、梅は丸い。

どちらも枝に直接付いて咲くが、桃は枝全体に、梅は根本の方に付きやすい。(ちなみに桜は枝から分岐した花枝に付く)

桃の幹はなめらか、梅はごつごつしている。

そして、桃は花と葉が同時に出るが、梅は花の後に葉が出てくる。これはわかりやすいかもしれない。

以上をふまえて、私が今まで撮ってきた花の写真を仕分けしていこうと思います。

 

まずこちら
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これは桃。むかし山梨に桃を見に行った時に撮影したので間違いなく桃。たしかに花びらが先の細い楕円形


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これもその時の写真、なので桃のはずなんだけど幹はけっこうごつごつしているので不安になる


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これもその時の桃、同時に葉が出ているのがよくわかる


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これはたぶん紅梅


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これも紅梅


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これは葉が出ているから桃?


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これは八重桜


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こちらは桃でも梅でも桜でもなく杏。長野の更埴というところ


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同上。杏の花びらは丸く、幹や枝が赤っぽいのが見分けポイントのようです(夕方の撮影のため暗くて枝の色がわからない)


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ということは枝が赤っぽいこれも杏ではなかろうか


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これは梅


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幹がごつごつのこれも梅


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これは花海棠。好き

 

なんとなくわかってきたような、そうでもないような。ここまでやっても結局、遠目に見ただけでは「梅かな? 桃かな? いやむしろ杏?」のままだろうなという気がする。

 

ちなみにこれら画像はすべてGoogleフォトで「桜」で検索して出てきたものです。むずかしいよね、花の同定

 

梅の花ひと足先に香をひらき足もとに降る水玉模様

 

 

草木萌動から蟄虫啓戸(地面から春)

本日Twitterのタイムラインで「啓蟄」の二文字を見て、え…嘘でしょ? と慌てて七十二候を確認した私です、こんばんは。二日くらいどこかに落としてきた気分。完全に一候遅れループに入ってしまった。なのでもうまとめてやります。二十四節気またいでるけど気にしない、もう気にしない。

 

ひとつ前が、草木萌動、そうもくめばえいずる。草木が芽生えはじめる頃。

そうもくめばえいずる。まさに春、という響き。足元には小さな草がどんどん生え、丈を伸ばし、花をつけている。オオイヌノフグリホトケノザ、それからごく小さな白い花(ノミノツヅリ?)、ハナニラもひとつだけ咲いているのを見かけた。日々散歩していると、木の根元から、ベンチの下から、じわじわと草が陣地を広げてきているのがわかる。

が、草木の「木」の方はまだまだ冬と変わらないように見える。もちろん梅は咲いたし桜の花芽も膨らんできているのだけど、落葉した木に新芽が芽吹いている様子はほとんど見られない。雪柳の細い枝に少しずつ黄緑色が見えるようになったくらい。林の中を歩いても、見上げれば枯れた枝ばかりだし、足元は積もった落ち葉で、全体的に薄茶色のままだ。

でも「草木萌動」という字面は、なんだか、草木のその体の中でエネルギーがうずうずしている感じがする。うずうずと外に出るタイミングをうかがっている感じ。見えないだけで、たぶん新芽はすぐそこまできているのだと思う。

 

続いて啓蟄の初候、蟄虫啓戸、すごもりむしとをひらく。暖かくなって地中にこもっていた虫が出てくる頃。

戸をひらく、というのがいい。小さな生き物が地面にある戸を開けて、やあ春だね、と出てくるのだ。

実感としてはその通りで、確かに最近、虫が飛びはじめた。蚊柱ほどではないけど、小さな虫が数匹まとまって、くるくると飛び交っているのを見かける。と書きながら気づく。もしかして、最近やたらとスズメを見かけるのもそのせいなのか。スズメは冬にもいたが、このところやけに多いし、川辺の草の上や常緑樹の枝の合間をアクティブに動いている。もしかしてあれは虫を捕まえているのか。単純に暖かくなったから元気なだけか。

 

二十四節気の雨水の初候に、土脉潤起、雨が降って土が潤う、というのがあった。

そこに続く候を見ていくと、霞始靆では土から立ちのぼる水蒸気で霞が生まれ、草木萌動では土の水分を得て草木が芽生え、蟄虫啓戸においては土から虫や蛙が出てくる、というふうに、土を起点として春が動いているのに気づく。偶然なのだろうか。それとも、母なる大地、大地母神のイメージなのだろうか。春は始まりの季節だから。

 

きみどりは生命の色 ひたひたと足元から春が生まれる

 

 

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今回、仮説めいた話ばかりになってしまったな

 

霞始靆(一候遅れ)

日付が変わってしまったので前回の七十二候。

 

霞始靆、かすみはじめてたなびく。霞がたなびきはじめる頃。

霞とは、空気中の水分が冷えて細かい水滴になり、空気の中をふよふよしている状態。それが春に現れやすいのは、前候で出てきたように土が水を含んでそこから蒸発したり、次候で出てくるように植物がいきいきとしだして葉っぱから水を蒸散したりするのに加え、昼夜の寒暖差が大きくなるためらしい。

 

この候へ移行した24日は、よく晴れて暖かくて、遠くの空が霞んでいた。晴れは晴れでも冬晴れのクリアな感じとは違って、どこかぼんやりした晴れ。青ではなく水色。これがまさに春の空。

毎年、春だなあ、と思うポイントはいくつもあるけど、そのうちのひとつが、冬に見えていた富士山が見えなくなることだ。冬の晴れた朝にはそこにあったはずの富士山が、どんなに晴れていても見えなくなる。春霞のせいなのか、黄砂のせいなのか、両方なのか。

春は好きだが、富士山が見えなくなるのは寂しいし、花粉や黄砂が飛ぶので外出や洗濯に気を遣うのも、いきなり暑い日がくるのも、つらい。この3点に直面すると、やっぱり冬のほうが好きかな…と思う。関東では雪国の過酷さもないし。

ただ、淡くくすんだ水色の空に、ほわほわと輪郭のにじんだやわらかな雲が浮かんでいるのは、好き。これも春ならではだと思う。

どの季節も好きなことと嫌いなことがあるけど、なるべく好きなことを見つけていきたい。七十二候を追うことがそれにつながればいいと思う。

 

白梅に紅梅、椿、春霞 こんな季節にきみは生まれた


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河津桜を見てきました(子供を抱きながらの撮影は難しい)

 

 

土脉潤起(それから獺祭魚)

土脉潤起、つちのしょううるおいおこる。 雨が降って土が潤いはじめる。二十四節気は雨水。これを書いている今日、関東各地でまた雪が降ったらしいけど、こちらではあられ混じりの雨で、パウダービーズのような白くてごく小さなあられがアスファルトの上をぴょんぴょん跳ねていた。傘の上でしきりに弾む音もにぎやか。

 

脉は脈の俗字、ということは水脈、鉱脈、の流れで土脈ということになるのか。ひとすじに連なる土とはどんなものだろう。それとも、水を含んで潤っていく様子が、土が脈打つよう、ということなのかもしれない。

干し椎茸にせよ、高野豆腐にせよ、乾いたものが再び水を得てふくらむとき、そこには甦りのイメージがある。乾いた土が水を得てふくらめば、植物も育つ。乾いたものたちは水を含んで息を吹き返すのだ。

 

日本の七十二候は中国由来のものを日本に合わせて調整したもので、中国版の七十二候では現在の候は「獺祭魚」となる。かわうそが捕らえた魚を食べるときに目の前に並べる、その様子を獺祭というのだ、と何年か前に飲み屋で友達が教えてくれた。日記を辿ってみたら6年前の夏だった。当時はまだ今のようにメディアで獺祭の名前を目にすることもなくて(私が疎かっただけかもしれない)、その後あちこちで見聞きするたびに彼女を思い出した。透明な酒の入ったグラスと、細い指。

私は彼女のことが大好きで、高校時代からずっと憧れていた。同級生で友達なんだけど、憧れ。本当にすてきな人なの。なので今回は敢えての中国版、かわうそについて調べてみる。

 

かわうその祭りを想像したときに思い浮かぶのは、けっこう大きくて野性味あふれる姿なので、よくテレビで見かけるコツメカワウソがカワウソだということには、調べはじめるまで思い至らなかった。名前にカワウソって入っているのに。あれはカワウソ界の最小種らしい(ちなみにカワウソ亜科ツメナシカワウソ属所属、ツメナシなのにコツメとはこれいかに)。

そして驚いたのが、ラッコがカワウソの一種だということ。カワウソ亜科ラッコ属。そういえば最近読んだ梨木香歩『海うそ』に、海うそとはラッコのことではないか、というくだりがあった。カワウソは川にいるから川うそ、海にいる海うそはラッコ。なんとなく似ているからとしか思っていなかったが、本当にどちらもカワウソだったとは。

 

カワウソは狐や狸のように人を化かすだとか、河童のモデルだとか、いやむしろ河童の一種だとかいわれて、各地の民話で活躍しているらしい。このカワウソの「祭り」はワッショイなフェスティバルではなく、人間が先祖を祀るためにお供え物をする様子に似ているからということなので「祀り」に近い。本当に魚を並べて祭りをするなら、妖怪のように思われても仕方ないと思う。そんな宗教的儀式、目撃したら驚くもの。人が入っているのかと思うもの。 

日本では絶滅したとされているが、実はひっそりと生きている可能性がある、というところも妖怪っぽい。姿を見せないだけで山の中にほそぼそと暮らしている。それっぽいのが目撃されたけど本当にそうか確証がもてない。そういう感じ、とてもいい。

 

かわうそのご先祖様へほそぼそとやっております 春の雪です

 
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春がどんどん増える

 

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昔からジブリ作品ではトトロが一番(か二番めに)好き。日常の中にファンタジーの可能性を感じられるのが良いのです