紅花栄(おもひでぽろぽろ)

花栄、べにばなさかう。紅花が咲きそろう頃。

最近の七十二候は実際の季節に沿っている感じだったが、紅花は夏の花で、咲くのは6月から7月ということなので、やや早い。

紅花はたんぽぽのように黄色く咲き、次第に赤くなる。花には水に溶ける黄色い色素と、水に溶けない赤い色素が含まれ、赤い色素のほうが少ないうえ取り出すのに手間がかかるため、染め物としては高価になるそうだ。

 

紅花といって思い出すのは、私の場合、何と言ってもスタジオジブリの映画『おもひでぽろぽろ』である。主人公は休暇を取って親戚の住む山形に滞在するのだが、そこで紅花摘みの手伝いをするシーンがある。もう何年も、たぶん15年以上観ていないので詳細は忘れてしまっていて、さっき調べたら紅花摘みがメインなわけではなく他の農作業もしていたようなのだが、私の中では、紅花=おもひでぽろぽろおもひでぽろぽろ=紅花というくらいに強烈な印象がある。

理由はわかっている。母だ。

 

映画は1991年公開。当時、私は回想編の主人公と同じ小学5年生だった(ちなみに4年後に公開された『耳をすませば』の時もやはり主人公と同じ中学3年生だった。余談)。

ある日、今日テレビで見たんだけど、とやや興奮ぎみに母が言った。山形には紅花という花の花畑があって、咲くと真っ赤になる、それをひとつひとつ摘んで赤い染料をとるのだという。初めて見た、綺麗だった、一度見てみたい。そういう主旨の話だった。おそらく映画の公開に合わせた番宣的なものを見たのだろう。今ならぱっと検索して、なるほどこれが紅花、となるのだろうが、当時はインターネットなどないので、母の言葉を聞きながら私は想像していた。赤い花畑。染料をとる…露草のようなものだろうか。触れたら指も染まるのだろうか。きっと湿り気を帯びた赤い花。

おそらく番宣、を見た母に連れられて映画館に行った。紅花畑がスクリーンに映る。思ってたより黄色いな、と思う。そして紅花のシーンは思っていたよりずっと短かった。映画について私が事前に得ていた唯一の情報が紅花だったので拍子抜けした。紅花の映画じゃないのか。

紅花の映画じゃないのか、と思ったにもかかわらず、私の中では今も『おもひでぽろぽろ』は紅花の映画だし、紅花といえば『おもひでぽろぽろ』なのだった。

 

母は(私も)今日に至るまで紅花畑を見たことがない。

母は飛行機に乗ったことがなく、もちろん海外にも出たことがない。そんな母は語学の学習にはまっていた時期があり、NHK語学講座を中心に、独学でイタリア語、スペイン語、フランス語の勉強をしていた。私が高校生の頃からだ。特にイタリア語は熱心で、日常会話の中にちょっとしたフレーズや単語をちょいちょい挟んできていた。おかげで私も今でも単語のいくつかはわかる。スプーンはクッキアイオ、フォークはフォルケッタ。綴りは知らない。

イタリア、行ってみたいなあ、と母は時々口にしていた。大学生の頃の私は、社会人になったら母をイタリアに連れていってあげたいと思っていた。でも実際に働きはじめたら、忘れた。卒業後しばらくフリーターで、そんなことを考える経済的な余裕がなかったせいもあるのかもしれないけど、実家に移ったタイミングで正社員になり、貯金ができるようになった頃には、そんなことはすっかり忘れていた。そして一人で海外に行った、生まれて初めての飛行機に乗って。

 

結婚して子供を産み、仕事もしていない今の状況では、親を海外に連れていくなんて宝くじでも当たらないかぎり不可能だ。今後働きだしたとしても、子供の教育費だの住宅資金だの老後資金だのでたぶん余裕はないし、夫と共にしている家計を自分の親だけに使うわけにはいかない、そうなると自分の小遣い(今はない)をこつこつ貯めて…何年かかるだろう。どうして一人の時に連れていかなかったのか。なんで一人でアイルランドなんて行っちゃったのか。とてもいい経験でした。

でも山形くらいなら連れていけると思う。今は無理でも、働きはじめたら。母はもう忘れているかもしれないけど、いつか夏の、赤く染まった紅花畑を見せてあげたい。

ここに書いておけばもうあの頃のようには忘れないと思いたい。

 

紅い花 まだ見ぬ紅い花にふれ指先染めたあの夏のこと

 

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蚕起食桑(蚕室の令嬢)

蚕起食桑、かいこおきてくわをはむ。蚕が目覚めて桑をどんどん食べる頃。

 

養蚕の歴史は三千年とも五千年ともいわれている。蚕は完全に家畜化された虫で、野生には存在しないし野生下では生きられないのだという。白くて目立つうえに敵から逃げる素早さも身を守る硬さもない、それどころか手足が弱くて枝にしがみついていられない。しかも羽化して蛾になっても飛べず、口が退化しているため食べることもできない。そういうふうに改良されてきたから。

改良。改良かあ、と思う。ここまで徹底的に野生から切り離すことを「改良」と表現するのは、ちょっとためらってしまう。牛だって鶏だって、家畜化されたものはみな品種改良の結果なのだが、それらとはちょっと違う、なにか、罪悪感のような苦しさ。

大半は成虫になる前に、繭をつくった時点で一生を終える(終わらされる)が、牛も鶏も豚も人間に益をなすために育てられるのは同じで、若いうちに屠られるものもいるだろうから、苦しいのはそこではない。それ自体はただもう、ありがとうございます、ありがたくいただかせていただきます、という気持ちだ。

では何か。たぶん、その存在が完全に人間の手に委ねられているという点がひとつと、あとは、大人になったらもう生きる必要がない、というのがショックなのだと思う。こども(幼虫つまり蚕)のうちは大切に大切にされるけど、大人(カイコガ)になってしまえば飛ぶことも食べることもない、交尾して産卵して死ぬだけで、それで必要十分だということ。ドラマチックなほどに絶望的な感じがする。それとも絶望的にドラマチックなのか。大人が生き残れない世界。

 

そういうふうに人間がしてきた、といっても、人間の管理下で育てられるうちに結果的にそうなっただけで、もしかしたらそれもひとつの適応なのかも、とも思う。虫の品種改良というものがどうやって行われるのか知らないのでなんとも言いがたいけど、何千年もの間、餌を自分でとりにいく必要がなく、敵もいなかったら、それはまあ外の世界では生きられない体になるだろうと思う。光の届かない深海に棲む生き物の目が退化するのと同じで。だって必要ないんだもの。

だとしても成虫になってから飛べない、食べない、というのはどういうことなのだろう。そこは人間の手が入ったのだろうか。たまたま現れた飛べない個体をここぞとばかりに繁殖させたりしたのだろうか。

それとも、幼虫時代にのんびり平和に暮らしすぎて、羽化したところで今さらがんばれない大人になってしまった、みたいなやつだろうか。

 

さっきからどうしても蚕を擬人化して想像してしまう。深窓の令嬢。とてもとても大切に育てられ、だけど美しいのは今だけ、大人になった自分には価値がないと思いこんでいる。体が弱く、いずれ長くは生きられない。ならば今の美しさを謳歌すべし、となるのか、だから何もかもどうでもいいと投げやりになるのか、できれば謳歌してほしいところではある。

 

深窓の令嬢と書いたが、実際に蚕はとても大切にされてきて、日本ではお蚕様とかオシラサマとか敬称付きで呼ばれていた地域も多い。生計を支える大事なものだから、とはよく言われているけど、白く柔らかい虫が美しい糸を吐くという神秘性や、それが人の手を借りなければ生きていけないというあやうさや心許なさも、全部ひっくるめたうえでのお蚕様なのだと思う。

 

実は大学の頃、文化人類学の授業の一環で、絹織物の産地に実習に行ったことがある。昔はどの家でも養蚕を行っていたが今では数軒を残すのみ、という場所。村を歩いて工房などで話を聞かせていただいた。のだが、申し訳ないほどにまったく記憶がない。細い水路と平行する道をひとりで歩いていたこと、小さな商店で熊肉の缶詰が売られていたことしか覚えていない。ひどい。今なら聞きたいことがたくさんあるのに。前回も書いたとおり、とにかく意欲のない学生だったのだ。かえすがえす、当時の自分に詰め寄って頬をぐにょんぐにょんである。

祖母の生家でも昔は養蚕をしていたらしい、と母から聞いた。なので鼠除けのために猫を飼っていたが、子猫が生まれると子供の自分が捨てに行かされた。当時のことだからたぶん水に沈めるとかさせられたんだと思う、だから猫が好きじゃないらしい、という話。

私が実家にいた頃、まだ祖母がぼけていなかった頃に、もっといろんな話を聞いてみたかったと思う。きりがないけど、思う。

 

その先は幸せですか 目を閉じてくるくる紡ぐ繭玉の夢

 

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竹笋生(竹と後悔)

竹笋生、たけのこしょうず。筍が生えてくる頃。

いまさら筍?と思ったらこの筍は孟宗竹ではなく、日本原産の真竹のことらしい。真竹の旬が今の時期。

住んでいるアパートの敷地の裏手にはちょっとした竹藪があり、春になると、そこから地下を這って進出してきた筍が横道の方に生え出てくる。去年は道のど真ん中に生えてきてうっかりつまづいたりしたが、今年はうまいこと端の茂みの中に生えてきたらしく、気づいた時には周りの木よりも長く長くなって、ゆらゆらと穂先を風に揺らしていた。ということは時期的にこれは孟宗竹であろう。

孟宗竹と真竹を見分けるには、節を見ることらしい。上の筒と下の筒(という表現が適当なのかどうか)が一本の節でつながっているのが孟宗竹、上下の筒にそれぞれ節があり、その間にゴムをはめたみたいな溝があるのが真竹。

 

竹といえば思い出すことがある。大学2年か3年の時、比較文化か何かの授業をとっていて、期末のレポートを書くのに、テーマは竹にしようと思ったのだ。東〜東南アジア圏における竹の利用についての比較。それを当時の彼氏に話すと、面白そう、と言ってくれた。その人は自分の専攻する分野には熱心だったが、私のとっている授業や課題に興味を示すのは珍しかったので、嬉しかった。自分のアイデアが認められたことがとても嬉しかった。

しかし、図書館で資料を探してきたものの、途中で面倒になって私はレポートを書くのをやめた。単位は捨てた。必修科目でもないし、別にいいや、と。

それを聞いた彼氏のがっかりした顔を見て、ああ、私はこういうとこがだめなんだよな、と思った。こういうところ、言ったことも実行せず、目標も持たず、すぐ楽な方へ流されるところ。興味関心をすぐ投げ出すところ。私もそんな自分が嫌だったが、積極的に変わっていこうという気概もなかった。そのまま怠惰で場当たり的な学生生活を送り、卒業前に彼氏とも別れ、何かをやりたいという情熱もないままフリーターになった。

あの時の出来事が、そういうすべてを象徴している気がする。

 

いろんなことに興味が出て、あれも知りたい、これも学びたい、と思うようになったのは大学を出て何年もしてからだ。言語、民俗、植物、気象、地理、地質。いちばん学べる環境にあった頃が、いちばん学ぶ意欲がなかった。いまさらすぎて普段は後悔することもないが、こうやって思い出してみると、なんでもう、おまえ、しっかりしろよおまえ、と当時の自分の頬をぐにょんぐにょんにしてやりたい気持ちにはなる。

 

でも、その反省があるからこそ、今こんなに知るのが楽しいのかも、とも思う。

二年前のまさに今の時期にタケノコについての記事を書いたのだけど、さっき読み返してみたら、知らなかった小さなことをひとつ知るだけで世界はちょっと面白く見える、と書いてあった。今もそう、だから私は今もこうやって七十二候に(遅れながらも)沿ってあれこれ調べながらブログを書いているんだな、と改めて思った次第。

 

竹よ竹 世界でいちばん美しく悲しいものを過去というのだ

 


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本文を書き終えて、あとは散歩がてら横道に生えてる件の竹の写真でも撮ってくるか、と思ってたら、竹はすでに切られた後だった。昨日の夕方まではあったのに。うまいこと人目を避けて成長したとはいえ、二階以上の高さまで伸びてしまうと気づかれないわけはないのだった。出る竹は切られる。なので先日撮ったコンクリートの虹です

 

蚯蚓出(毒ミミズの夢)

蚯蚓出、みみずいづる。冬眠していたミミズが地上に出てくる頃。冬眠って。もう夏である。啓蟄から遅れること二ヶ月、ようやく出てくるらしい。のんびりしたものである。

今回ミミズについてあれこれ調べてみたけど、例によってゲシュタルト崩壊してミミズが流れ星のよう(ミミ☆的な感じでミミズ)に見えてくるばかりで、掘り下げるような話が思いつかない。ので掘り下げずに箇条書きで行ってみようと思います。

 

・ミミズは雌雄同体、というのを私はずっと、あのにょろにょろの一方の先端が雄でもう一方の先端が雌だと信じこんでいたのだが、そういうことではなかった。体の太くなったところ(環帯)近くに雄の生殖器と雌の生殖器をそれぞれもっているとのこと。

 

・農薬や重金属などで汚染された土に住むミミズは、体内にその汚染物質を取り込んで濃縮し、毒ミミズ化することがある、という記述がWikipediaにあった。ミミズの毒ミミズ化。復唱してしまう。

その毒ミミズを食べた鳥やモグラや魚がまた誰かに食べられ、と食物連鎖するうちに人間に辿り着くかもしれないね、ということだけど気をつけようもない。

 

・大雨の後に道路に出てきて死んでいるのは、大雨で土の中では息ができなくなるから、という説が一般的らしい。苦しいから出てきてしまう。雨の日に蛙が浮かれて道路に出てくるのとはまったく逆の仕組みなのだった。

 

子供の頃はミミズなんて気持ち悪くもなんともなかった。近くに住んでいた祖父母や伯父伯母の畑を手伝うことがたまにあり、大きなミミズが出てくると、すごい大きいのいた! とむしろ喜んだものだった。手伝っていたのは主に芋掘りだ。じゃがいも、さつまいも。掘るのでミミズはどんどん出てくる。ミミズも土から出てくる他の虫も、土で汚れることも、汗も日焼けも気にならず、ただただ楽しかった記憶しかない。

あれから20年以上経って、ミミズについて調べていた私は、ミミズをちょっと気持ち悪いと思うようになっていることに気づいた。画像から目を逸らしてしまう。体の構造や生態についての仔細な解説も流し読みしてしまう。昔は、道路に出てきたミミズを棒で拾って土に戻してやる子供だったのに。変わってしまったな、おまえ。

 

 

毒ミミズ夢なかばにて陽炎のアスファルトに死す 空が、青い

 
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本文とは関係ないけど、去年は5月18日頃に満開だったエゴノキの花が今年はもうほとんど散ってしまった。今日はガクアジサイが開花しているのを発見。季節が前倒しでどんどん進む。このへんで踏みとどまってほしいけど、そういうことはたぶんないんだろうな…。

あと、蚯蚓と漢字にすると、虫偏に丘っ引きなのだな、と気づいたのでこれでもう漢字で書けます(おかっぴきは岡っ引きと書くのが正しいらしいがそれはそれ)

 

蛙始鳴(歓びの歌)

5日から昨日までの七十二候、蛙始鳴、かわずはじめてなく。蛙が鳴きはじめる頃。

二十四節気では立夏。暦上は夏だ。と書きながら一昨日から寒い。しまったばかりの冬服を再び出して着ている。

 

蛙が出てくるのは啓蟄の頃、巣ごもり虫が戸を開いた3月上旬だが、しばらくは静かに過ごし、この頃になると繁殖のために鳴きはじめるということらしい。

4月半ばに帰省した際、すでに田んぼだか水路ではゲコゲコと蛙が鳴いていて、もう…? と思ったのだが、今年はやはり季節の進みが早いのだろうか。でもどうせあれでしょ、秋が来るのは例年通りか遅いくらいなんでしょ、夏が長くなるだけなんでしょ(夏嫌い)。

閑話休題

蛙の合唱も聞こえていたが、池にはおたまじゃくしの姿も見られた。ええと、蛙の鳴いている今が繁殖期、ということはこれから産卵する、だけどもうおたまじゃくしもいる。今いるおたまじゃくしはいつの卵から生まれたものなのだろう。

 

調べると、実際の産卵期間は蛙の種類によって異なり、冬に産むもの、春に産むもの、初夏に産むもの、さらにそこから秋まで長期に渡って産むもの、などいろいろいるらしい。なので一年じゅう何かしらのおたまじゃくしはいる。

ということは、いま鳴いている蛙といま泳いでいるおたまじゃくしは別種のものなのか、と思いきや、卵から孵化するのには一週間程度しかかからないらしい。これも種類によって違うのかもしれないが、一週間だとすれば、真っ先に繁殖を始めた蛙の卵がもう孵化した、ということも考えられる。これはもう、鳴いている蛙とおたまじゃくしをちゃんと観察して種類を定めないと結論の出せない話なのであった。

 

おたまじゃくしが蛙になるまでの期間もまちまちで、ウシガエルなんかは1、2年もかかり、おたまじゃくしのまま越冬するのだという。Wikipediaウシガエルのおたまじゃくしの写真があったが、なんというか悪い意味での手のひらサイズであった。でかい。池にこんなのがいたら絶対ヌシって呼ぶ。

 

子供の頃に蛙につまづいたことがある。小学生だっか中学生だったか。当時、中学校の裏手に祖父母の家があった。父の生家であるその家の前庭には木が鬱蒼と茂っていた。アーチ状に覆いかぶさる緑の下をくぐり、左手にはごく小さな池、正面に住居、右手の木々を抜けると畑があった。木が密に生えていたせいか、日陰の池のせいか、記憶の中の庭は湿っていて暗い。晴れた日にはそれなりに明るかったはずなのだが。しょっちゅう訪れていたのにぼんやりとしか庭の記憶がないのは、少し怖かったからだ。湿っていて暗い、その印象はおそらく幼心に感じたものがそのまま引き継がれてしまっているのだと思う。小さな庭なのに私の知らない場所がたくさんある、というか住居に向かうルート以外にはほとんど足を踏み入れた覚えがない。

夜になると庭はいっそう暗く、ほぼ暗闇となる。足元など見えない。目を凝らさなければ、そこに蛙がいたとしても見えない。

ぼごん、というか、ぐぼん、というか、なんとも言いがたい重く柔らかな感覚が爪先にあり、バランスを崩して前によろめいた。10cmはありそうな、なにかごつごつした黒っぽいものが動くのが見えた。鳥肌が全身をめぐる。かえるをけってしまった。恐ろしいことをしてしまったと思った。爪先がどろどろと(イメージ)気持ち悪い、蛙は無事か、潰れたりしていないか。呪われたらどうしよう。

たぶんヒキガエルだと誰かが言った。あの庭でそんな大きな蛙を見たことがなかった、むしろそんな大きな蛙自体かつて見たことがなかったので私は動揺しまくっていたのだが、親は大して驚きもせず、私の恐怖に寄り添ってもくれず、父の車で家に帰る間、私はひとりで蛙の呪いに怯えていた。なぜ呪われると思ったのかは今となってはよくわからない。大きな蛙に呪術性を感じていたのかもしれない。

 

それが私と大型カエルとのファーストコンタクトで、それ以来、大きな蛙は怖い。アマガエルは可愛いし手に載せても大丈夫、大きさが2cm以内ならたぶん触れるが、3cmになるとちょっとためらう。ヒキガエルは無理だ。まあこれは蹴っていなくても無理かもしれない。

 

先日散歩していると道路で5cmくらいの蛙が潰れていた。今日みたいな雨の日は張りきって道路に出てきていると思うので、どうか皆様、つまづかないよう足元にご注意ください。

 

皮膚に雨 地上で息ができる日のかえるのうたは歓びの歌


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むかし職場に現れた蛙(手は同僚)

 

 

ど根性ガエルになるところだったよ

牡丹華(わたしにないもの)

ひとつ前、4日までの七十二候、牡丹華、ぼたんはなさく。文字通り、牡丹の花が咲く頃。

 

私が初めて牡丹の花というものを意識したのは24歳の時だ。同棲生活が破綻して逃げこむように移り住んだ実家の庭に芍薬が咲いていた。たぶん芍薬、と母が言っていた気がする。たぶん言っていた、ではなく、「たぶん牡丹ではなく芍薬」。その時に、ふたつの植物がよく似ていること、どちらかが草であることを教わった。なので牡丹という花を意識したと言いながら見たのは芍薬である。牡丹とはこれに似た花なのか、という意味での意識。

前にもどこかで書いたかもしれないが、その頃まで私は植物にはほとんど興味がなく、小学生が知っている程度の花しか知らなかった。読書好きな子供だったので名前だけはいろいろと知っているのだが、実際にそれがどんな花であるのか、知らないし知ろうという気持ちもなかった。

初めて見る芍薬の花は惚れ惚れする華やかさだった。ゆたかな花びらをもつ大輪の花が、空を見上げるようにいくつも咲いていた、その堂々たる美しさ。きれいだなあ、と思った。精神的に疲弊していた私の目にそれはとても眩しかった。そうか、これが芍薬の花なのか。

 

美人を形容するのに、立てば芍薬、座れば牡丹、というので芍薬が木で牡丹が草かとなんとなく思っていたが、違った。牡丹のほうが木なのであった。

牡丹を実際に見たのはいつだろう。芍薬から遠くないうちにどこかで見たような気もするが、確実に記録に残っているのは、ある年の4月20日。日記に牡丹の記述があった。

 

朝から車で西新井大師へ、厄除けのお札をお返ししに行く。10時半頃に着く。駐車場は空いているが境内には意外と人がいる。屋台がたくさん出ている。でも午前中のせいか、皆あまりやる気がない。ちょうど花まつりの最中で、牡丹が満開。なんて大きい花。子供の頭くらいある。白、赤、赤紫、桃色の、ひらひらとハンカチのような花弁。
厄除けのお札の代わりに、小さな厄除け守りを買ってもらう。財布に入れる。

 

子供の頭くらいの大きな牡丹。

調べると牡丹の花の大きさは10〜20cmということだが、咲き乱れるさまざまな品種の牡丹はどれも本当に立派で、品評会かと思うほどだった。芍薬の方が馴染み深かった私は、こんな大きくなくていいよう、とたじろいだ。迫力が凄かった。数が多いこともあるのだろうが、実家の畑にぽんと生えていた芍薬にはない、圧があった。別名を富貴花というのもなるほどである。

 

↓牡丹園の牡丹
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↓こちらが実家の芍薬
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こう比べてみるとたしかに、芍薬は立ち姿、牡丹は座り姿、という感じがする。

 

 

大輪の牡丹 わたしにないものをすべて持ってた、奪っていった

 

約束は守られぬまま朽ちていく白鍵黒鍵緋色の牡丹

 

艶やかな花に俯き今もまだ君の不幸を願う、時々

 

 

霜止出苗(田んぼの話)

霜止出苗、しもやんでなえいづる。霜が降りなくなり、稲の苗が生長する頃。例によってもう終わっています、昨日、もとい日付的には一昨日、まで。

 

4月半ばに一週間ほど子供とふたりで実家に帰省した。うちは農家ではないのだが、自分たちで食べるだけの米は作っていて(少し前まで多少は出荷もしていたというのは最近知った)機械を動かしたりする大きな作業は伯父の仕事なのだが、苗床のあるビニールハウスの温度管理は母の担当のようで、朝にハウス側面の通気窓を開けて日中の過熱を防ぎ、夕方には閉める、というのを毎日やっていた。私が着いた日の朝は開け忘れたらしく、認知症の祖母に怒られていた。100歳近い祖母の認知症は年々進行して、朝の出来事を昼には忘れていることもざらだが、母を叱る祖母の口調は完全に往時のままだった。何十年も、この時期になると毎日毎日繰り返していた、祖母にとってそれだけ大事で当たり前の作業なのだろう、自分の歳や過去の大手術や私が子供を産んだことを忘れても、それより深く脳に刻まれているもの。

 

祖母のいる信州に移住する前、高校までは家族で千葉に住んでいたが、田植えや稲刈りの時期になると母と電車で手伝いに行ったりしていた。とはいえ、稲刈りの際は刈り取った稲を稲架に掛けるなど子供でもできることがあったが、田植えではあまりやることがない。遊び程度に手植えしてみたり、田植え機を押させてもらったりするくらい。田植え機をまっすぐに押してぬかるみの中を歩くのは予想以上に難しくて、私の植えたところはうねうねになっていた。

信州に住んでいた三年間もあまり田んぼ仕事には関わってこなかったので(その頃には田んぼの枚数も減らして余計な人手は要らなくなったのだ)、未だに私の知っている稲作手順は「すじまき」「代かき」「田植え」「稲刈り」「稲こき」のみで、それさえもぼんやりしている。すじまきの後に毎日ハウスの温度管理をしていることも今回の帰省で初めて知った。いつも米を送ってもらっているくせに、この知識の乏しさ。

 

私が知っていると胸を張って言えるのは、田植え前後の田んぼの美しさくらいだ。この時期の水を張った田んぼは、晴れた日には空を、夜には月を映して本当にきれい。桜が散って木々が新緑に染まる、それ以降はもう緑はどんどん濃くなるし気温はめきめき上がるしで私には憂鬱でしかないのだけど、そんな中での数少ない喜びが、この田んぼである。個人的には桜に匹敵するくらい好き。大好き。

今まではただ愛でるだけだったけど、今回改めて稲作手順について調べて、米づくりには八十八の手間がある、というのを思い出したので、これからは農家さんに感謝しつつ愛でようと思う。お米と美しい風景をありがとうございます。

 

痩せた手は力なくとも脈々と息づくものよ田に落ちる月


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私のグーグルフォトを遡るとこれ系の写真が何枚も出てくるが、いま住んでいるところは畑作中心の場所で田んぼがほとんどなく、ここ何年か撮れていない。寂しい。