玄鳥去(今年のつばめの記録です)

玄鳥去、つばめさる。ツバメが南へ帰っていく頃。

4月の初めに「玄鳥至」、つばめいたる、というのがあって、その頃に南から来たツバメたちが、産卵と子育てを終えて南へ去っていくのがこの時期ということらしい。が、もうずいぶん前からツバメは見ていない気がする。

そのへんも含めて、以下、今年のツバメの記録です。

 

4月12日、初めてツバメが飛んでいるのを目撃。民家のガレージへシュイッと入っていき、またシュイッと出てきた。

4月下旬、二羽のツバメが交互に水たまりに飛んできて、また飛び去っていくのを見学。何度も何度も行ったり来たりしていた。何か咥えている様子も。

この二回は場所がとても近いので同じツバメかなと思う。それからしばらく、この付近では見かけるが、他では(私の行動範囲内では)見かけず。

 

6月上旬、アパートの二軒隣の会社の入口に巣が出来ているのを発見。去年の巣も残っているが、再利用はしないらしい。

見上げるといつも巣の中から一羽、すんっと頭を出している。雛? と思ったが大きい。時々もう一羽が飛んできて入れ替わる。

 

6月12日、通りがかった時に頭上でジジッと聞き慣れない声がする。見ると巣から小さな頭がいくつも飛び出していた。孵った! と思うと同時に、そうか、二羽で入れ替わり巣にいたのは、卵を温めていたのか、とようやく気づく。

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それから通るたびに観察。親鳥が来たときにいっせいに口を開いてわいわいするのも可愛いが、何もないときに、顔だけ出してじっとしているのもまた可愛い。

 

6月21日、雛はだいぶ大きくなった。小さい時と同じように並んで頭を出して待機しているが、みちみちして狭そう。

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みちみち

 

6月26日、巣を見上げると雛の姿がない。周囲を探すが見当たらず、少し離れた畑の上でよろよろ飛ぶ一羽を発見。あれがそうだろうか。

 

6月28日、畑の上を四羽ほど飛んでいるのを見る。飛び方があやしい。空気を切り裂くような滑らかさがない。たぶん子ツバメが飛ぶ練習をしているのだろう。

 

それからしばらくの間、付近を飛んでいるのを見かけたが、7月の半ばにはもう見なくなったと思う。このあたりから私も暑さにやられて余裕がなくなってきたのであやしいところではあるが、暑くても毎日のように夕方には散歩していたし、外に出れば鳥を探していたはずなので、たぶん、いなくなった。

どこに行ったのだろう。関東の暑さに疲れてもう少し涼しいところへ行ったのか。それとも、ここにいても暑いのでさっさと南に帰ったのか。日本の冬の寒さに耐えられないからツバメは南で越冬するというが、寒さに弱いからって暑さに強いとは限らない。どこでどうしていたの。

今年がたまたま早くいなくなったのか、毎年こんな感じなのか、気になるので来年も観察したいと思います。

 

玄鳥は南へ去って残されたものたちだけが見るいわし雲

 

 

 

鶺鴒鳴(追うほどに)

鶺鴒鳴、せきれいなく。セキレイの鳴き声が聴こえる頃。

 

日本で見られるセキレイは主にハクセキレイセグロセキレイキセキレイの三種だが、繁殖期はどれも春から夏だし、この時期に鳴くってどういうこと、と調べていると、どうやらハクセキレイはかつては本州では冬鳥だったらしい。今では一年じゅうそのへんにいるが、20世紀中頃までは、春から夏に北で繁殖を終えて、越冬のために本州へ南下してきた、それが今の時期ということ。つまりこの「鳴く」は求愛の声ではなく地鳴きのよう。

 

私は鳥を見たりするのがけっこう好きなのだけど(余談だが、鳥からは嫌われがちで、夫の実家で飼っていたインコに鼻をついばまれたり、ペットショップのオウムに突然威嚇されたりする。つらい)その中でもハクセキレイはかなり好きな鳥である。

ハクセキレイという鳥を最初に認識したのは10年ほど前だ。当時の職場の駐車場に、よく舞い降りてくる鳥がいた。おそらく倉庫の軒下かどこかに営巣していたのだと思う。駐車場は資材の積み下ろしを行う関係でだだっ広く、その広い空間を、すたたたたたたと足を素早く動かして走りまわる小さな鳥。なんだあれ、とそっと近づいてみると、尾を上下させながら走って逃げる。立ち止まり、ちらりとこちらを振り返る。私が動くとまたすたたたたと逃げる、測ったように距離を保ったまま。飛ばない。なにこれ面白い。

それがハクセキレイとの出会いで、それからしばらく、仕事が暇になると駐車場に出て彼らの様子を眺めたり、なんとか距離を詰められないか試行錯誤したりしていた。野良猫にやるのと同じ要領で、余所見しながら何食わぬ顔で近づいていくと、いつもよりほんの少しは近づけるが、近づきすぎると飛んで逃げてしまう。難しい。

なので私にとってハクセキレイは、走って逃げる鳥、近づかせてくれない鳥だったのだが、今回「ハクセキレイ」で検索すると「逃げない」という関連ワードが多く出てきて驚いた。スズメなどと違って人間に恐怖心がないので逃げない、などと書いてある。本当に? あの、後ろを振り返りながら一定の距離を保ち続ける、あれは警戒心の表れではないの? もしかして私にだけなの? 私が鳥に嫌われやすいと自覚するのはその5年ほど後だけど、もしかしてあれはフラグだったの??

でも、そういえば数年前に駅のホームで出会ったセキレイ(当時はセグロセキレイかと思ったが黒い部分の多いハクセキレイかもしれない)は、ピーク時間は過ぎたとはいえ朝のホームにいるだけあって、比較的近づくことができた。田舎のセキレイより都会のセキレイの方が、狭いところで生活しているから、人との距離が近いことに慣れているのかもしれない。10年前に見たハクセキレイは、同じハクセキレイ同士の間でもやけに距離をとって歩いていた。人に追われるのと同じように、一羽が近づくともう一羽が逃げていた。パーソナルスペース広っ、と思ったものだった。

 

あの足の動きを見るのがとても好きで、会うとつい追いかけてしまう(だから本当に嫌われているのかもしれない)。あの、何とも形容しがたい、素早い足の動き。できれば広々とした平坦な場所で、存分に追いかけながら見たい。見ているとどこかへ誘われるような不思議な気持ちになる。夢を見ているような気分になる。それはあの頃の私が、いつもどこか夢を見るようにぼんやりと暮らしていたからかもしれないけど。

 


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追うほどに走って逃げる鶺鴒よ足下で白い真昼が融ける

 

草露白(この水は)

草露白、くさのつゆしろし。草に露が降りて白く光る頃。

 

お久しぶりです。だんだん秋の気配が濃くなり、気持ちに余裕も出てきたので、復活することにしました。またよろしくお願いいたします。

夏の間は本当にしんどくて、とにかくもう生き延びることだけを目標にしようと思っていた。暑いと体力だけでなく、それ以上に気力を奪われる。つらかった。つらくてもうあまり覚えていない。

それが最近になってようやく朝晩と散歩に出られるようになった。夕方の風は秋の匂いがする。雲も空の色も少し様子が違う。生き延びた。どうやら生き延びたらしかった。

 

とはいえまだまだ暑い。先週のある日の午前中、日差しつよい、日向つらい、と思いながら歩いていて、逃げるように運動場の木陰に入ると、足元の草が濡れていた。たしか昨夜も朝も雨は降っていなかったと思う。ということは朝露? 朝露なんてずいぶん久しぶりに見た気がする。まったく想定していなかったのでサンダルで来てしまった。素足が濡れる。

その時はそれだけだったが、今回の七十二候を見て、あー! と思った。そうか、これも秋なのだ。秋になったから朝露が降りたのだ。

 

朝露は朝晩と日中の気温差が大きいと生じる。真夏日猛暑日になる日でも、朝晩は涼しい日が増えた。だからこそ私も散歩に行けるようになったわけで、朝露も、私の散歩も、同じ条件のもとに発生した事象なのであった。

 

公園で最初に見つけたのはBB弾ほどの小さな小さなどんぐりの卵で、一週間もすると青いながらも帽子をつけたどんぐりの形になり、さらに一週間もすれば、茶色い、紛うことなきどんぐりになった。蝉の声が減り、あちこちに落ちているのを見る。赤とんぼが飛びはじめる。雨のたびにいっせいに繁茂していた雑草がおとなしくなり、代わりに雨の後にはきのこがぽこぽこ生える。黄葉した桜の葉が落ちている。百日紅の花が勢いを失い、彼岸花が咲く。それから朝露。

これが今年見た夏の終わり。

 

朝露に足を濡らしてこの水はゆうべあなたの頬にいた水


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立秋前の百日紅

今年は暑さのせいか百日紅の期間が短かったように思う。9月の初めでもうずいぶん花を落としてしまった。これからまた咲くのだろうか。

 

 

七十二候お休みします

遅れ遅れになりつつも半年ちょっと続けてきた七十二候の話ですが、全然追いついていないし、他の書き物に時間を割きたいこともあり、しばらくお休みすることにしました。平均五日ごとに更新、というのは考えてみれば毎週更新より多いわけで、よく(遅れつつも)半年も続けられたなという気持ち…自分に甘い…

他の書き物、というのは主に日記です。何年もつけてきた日記がこのところ、というかもうずいぶん前から滞りがちになっていて、日々成長する我が子にまつわること、日常の小さなことを、もっとちゃんと残しておきたいと思う。

もうひとつ、友達とのLINEグループで書いている小説が、放置されたままずるずる三年めに入ってしまったのでそれを今年中に片付けたいと思い、久々に手をつけてみたら楽しくなってしまったこともある。創作、楽しい。

 

七十二候をひとまわり、最後までやり遂げたいという思いもあって迷っていたのだけど、限られた時間を割り振る優先順位を考えると、こっちではないかなあ、と思う。こちらも書きはじめれば楽しいのは事実だ。だけど、五日ごと、という期限があるのがきつい。ああ次の候になっちゃう、書かなきゃ…と、日記を後回しにして書く。タイミングを自分で選べない。そもそもさっさと手をつけずに後回しにしているからそうなるのだけど。

 

タイミングを自分で選べない、と書いていて思い出したことがある。最近気づいたこと。

 

時々どうしようもなく、あー、生きるの面倒だな、と思う。

子育てしていると生活のペースは子供中心になる。早朝に子供が起きたら起き、子供の機嫌がいいタイミングをみて家事、ぐずったら中断、要求されれば抱っこ、子供の体力を削るための時間の遣い方を考え、買い物は昼寝のタイミングと被らないように。寝かしつけを終えて洗い物をするため台所へ行くと、待ってましたとばかりに猫が来る。猫にかまう。家事を片付け、さてお茶でも飲むか、と再び台所へ行くとまた猫が来てかまえかまえと言う。ようやく自由時間、と思うと夫がもう寝るから電気を消したいと言う(夫は居間で寝る)。

具体例が異様に長くなったが、ああもう生きてるのめんどくさい、と思うのはこういう時だ。なにひとつ自分のペースで行えないというのは本当にストレスになる。常に自分以外の何かのタイミングに合わせて生きるというのは、本当に、めんどくさい。

 

その場その場で誰かに合わせて動くことと、納期的なものがあることとでは、同じタイミングの問題といってもまったく意味合いが違うけど、そんなことを、タイミングの話で思い出した。たまにはゆっくりごはんを食べたい。好きなタイミングでブログを書きたい。まあ似ているといえば似ているか。

 

とはいえ今後もタイミングが合えば七十二候の話もすると思います。と同時に、他のことも書いていけたらいいな…いけるかな…。

以上です。今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

木のうろに誰かが貯めたどんぐりがタールのように溶けてゆく夏


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毎日めちゃくちゃに暑いですね

 

 

蓮始開(淀みのなかに)

蓮始開、はすはじめてひらく。蓮の花が咲きはじめる頃。

蓮は泥の中で発芽し、すっと伸びて、汚れなど知らない顔で美しく咲く。しかも大きな葉は水をころころと弾いて、雨が降っても風が吹いて土埃が舞っても、やはり汚れることがない。ひとことで言って清浄。仏教やヒンドゥー教で象徴的に扱われるというのも納得である。ひとつだけ咲いても、たくさん咲いても、蓮は美しく、清しい。

泥の中から生まれて、外界の汚れを拒んで美しく咲く、なんてもう、物語性がありすぎてドキドキしてしまう。しかも何百年、何千年前の種子でも発芽したりする。千年後にコールドスリープから目覚める孤高の魂。

 

そんな壮大(風)な物語でなくても、たとえば泥は自分の醜さで、その中にも堅い殻に守られた種があり、いつか咲く、と思えばそれはささやかな希望の物語になる。あるいは、泥は自分を取り巻く状況で、それでも自分だけは美しく在ることができる、という希望。蓮は泥より出でて泥に染まらず。いくつもの解釈ができる言葉だと思う。くさらずに生きていきたいと思う。

 

蓮の花 淀みのなかに咲くならばこの大地みな薄紅となれ


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温風至(熱風の来て)

2日遅れました。温風至、あつかぜいたる。暖かい風が吹いてくる頃。あつかぜ、というくらいだから暖かいというより熱い風か。夏の湿った南風。

湿気をたっぷりと含んだ熱風にあたると、苦しくなる。体じゅうの毛穴が湿気で塞がれて、息ができない、皮膚呼吸ができない、と思う。肺呼吸ができていれば問題ないはずなのに、皮膚が塞がっただけで、とても苦しい。

 

あつかぜいたる、の「至る」は言うまでもなく「南から至る」だ。暖かい季節は南からやってくる。4月の「つばめきたる」も「南から来たる」だった。

ずっと南には赤道があり、赤道に近いほど(原則的には)暑い。そのために、日本人には《南・暑い・夏》《北・寒い・冬》という対立的なイメージのグループがあると思う。

南のグループは、眩しい。そしてポジティブだ。南の島でバカンスだとか、夏は恋の季節だとか、私の恋は南の風に乗って走るとか、夏夏夏夏ココナッツだとか、やけにテンションが高い。夏休みという長期休暇の存在も大きいのかもしれないが、なんだかとても楽しそうだ。

一方で北のグループはしんみりしている。冬山でバカンス☆みたいにはならないし、冬が来る前にもう一度あの人と巡り会いたいし、北へ帰る人の群れは誰も無口だ(とはいえ北の酒場通りには女を酔わせる恋があったり、ゲレンデが溶けるほど恋したかったりなどテンションの高い例もたくさんあるので、あくまで言葉自体の漠然としたイメージです)。

 

何年も前、夏の日本海に行った時に友達が言っていたことが、とても印象的だった。

曰く、夏の日本海が落ち着いて見えるのは、南を向いていないからだ。太平洋側の浜辺、湘南などは南を向いているので、太陽が燦々と降りそそいで明るい。その違いが、日本海と太平洋のイメージの違いなんだろう、と。

なるほどと思った。太陽と海が同じ方向にあれば、目に入る光の量はとても多くなる。それは明るい。それは眩しい。テンションも上がろう。

そんな話をしながら、人もまばらな小石の浜辺に寝転んで波の音を聴いていた。波が寄せて返すたび、小さな石の転がる音が耳元にしていた。自分も石になって海に引きずり込まれそうな感覚。夏も暑いのも眩しいのも嫌い。テンションの低い海は私にとてもやさしかった。

 

南から熱風の来てひとけないうすむらさきの浜辺にも夏

 

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糸魚川のラベンダービーチというところ

 

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このたびの豪雨の被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

この「南からの温風」が豪雨の一因であったことを思うと、なかなか今回の候について書く気になれませんでした。たくさんの方が亡くなって、たくさんの方が苦しい思いをされているのに、呑気に南風の話なんかしていていいのだろうかと。それでも書いてしまった。

 

大きな災害が起きたとき、自分をその出来事のどこに位置付けたらいいかわからなくなる。当事者ではない、といって他人事と割り切ってしまうのも苦しい。

3.11の津波の映像を当時リアルタイムでテレビで見ていた。どこどこに何百人の遺体が、とアナウンサーが言う。その数がどんどん増えていく。怖くて怖くて涙が止まらなかった。今も思い出すと泣いてしまう。それ以来、震災だけでなく他の災害の映像や仔細な被害状況などを見るのがつらくなった。だから実は今回もあまり見ないようにしていて、でもそれは自分と切り離して他人事にしようとする行為なのではないか、という葛藤が常にある。でも現実的に、私なんかが心を痛めたところで状況が良くなるわけではない、とも思う。思いながら、ぽつぽつ貯まってきていた楽天ポイントを募金した。

どうか行方不明の方々が一刻も早く見つかりますように。被災された方々に穏やかな日々が訪れますように。

 

半夏生(この夏の半分を)

半夏生、はんげしょうず。烏柄杓(カラスビシャク、漢名を半夏)が生える頃、または半夏生というその通りの名をもつ草の葉の裏が白くなる頃、ということだが由来がふたつあるのは半年ちょっと見てきて初めてではなかろうか。

由来ははっきりしないものの、半夏生、という言葉は七十二候を追いかけはじめる前から聞いたことがあったし(そういう方は多いと思う)急に知ってる言葉が出てきた、という感じだった。なんだろうと思ったら、この半夏生というのは七十二候のひとつであると同時に、雑節のひとつでもあるらしい。この場合は「はんげしょう」と読む。雑節というのは、節分、彼岸、八十八夜、土用などといった季節の節目となる日のこと。七十二候のように中国由来のもの(をいじったもの)ではなく、日本の気候や生活に基づくもので、立春夏至春分秋分を起点にして何日め、というふうに定められている。

どちらにも登場するのは半夏生だけ。おそらく、農業的に重要なこの時期にちょうどいい、ということで七十二候から雑節に採用されたのだと思う。

 

雑節でいうところの半夏生は、夏至から11日め〜七夕あたりまでの5日間を指す(ちなみに七夕は雑節には含まれていない)。

半夏生には毒が降るとか、妖怪が出るとか、この日に採った野菜は食べるなとか、蛸を食えとか、各地でさまざまな言い伝えや風習がある。これは七十二候ではなく雑節の半夏生にまつわるものであろう。節分や土用にもそれぞれさまざまな風習があるのと同じで。 

 

植物の話に戻るが、カラスビシャクを半夏というのは、この植物が生えてくる頃(つまり今の時期)が仏教における「半夏」の時期だかららしい。半夏とは、夏にお坊さんが外に出ず籠もって修行する、夏安居(げあんご)という90日の期間の真ん中、45日めのこと。

仏教からきた「半夏」という名が植物につき、その植物が生える頃という名が七十二候に採用され(七十二候は日本版と中国版とで異なるものもあるが、中国版でもここは半夏生)、それが今度は雑節にも転用され、そこでさまざまな民俗が繰り広げられる。なんだか面白い。坊さんが夏籠もりしているど真ん中の日に、仏教と関係ない市井の人々が、毒が降る、蛸を食えとわちゃわちゃしている。

 

半夏生の時期に降る雨を半夏雨といって、大雨になることが多いのだという。今まさに日本のあちこちで大雨が降っている。どうか大きな災害になりませんように。

 

この夏の半分をあなたにあげる 赤い宇宙に散りばめた種

 
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字面がとてもきれいだと思う、半夏生