ついでに昔の歌と、記録すること
ここ数ヶ月、ふと思い出したように、妊娠したのだから今しか詠めない短歌を、と考えていたのだが、これがまったく浮かんでこない。
そんな時に「短歌の目」をたまたま目にして、作った歌は、やはり妊娠とも出産とも家族ともなんの関係もないものになった。
恋すると人は誰も詩人になってしまうもの、とは谷村有美『圧倒的に片想い』(マイベスト片想いソングです)のフレーズであるが、片想いとまではいかずとも、なにかに、あるいは誰かにときめいている時期ほど、歌が増える。
なので、結婚してからというもの、さて詠もう、と意気込まないとなかなか自然にぽんとは浮かんでこないのだった。
若き日々、ときめきを食べて生きていた頃のものをいくつか。
<2007年編>
あの人の近くを通るためだけのコーヒー100円必要経費
惹かれ惹かれて夢に見る夢のなか現に次いでまた恋をする
細糸につないであった雨粒は弾けて飛んださよならすべて
つめくさの葉にふるえる雫のごとく拒まれてなおうつくしいまま
美しいあなたを祝福するように祈りのようにきらきらささめ
にじみゆくうすむらさきの空に立つ白い足跡 ここからどこへ
当時は日記代わりに携帯に毎日メモしていたので、短歌というよりただの雑感を三十一文字に収めただけ、というものも多い。
それでも、コーヒー100円、とか読み返すと、当時の気持ちや情景を生々しく思い出す。真冬の寒い中、100円玉を握りしめてわざわざ外の自販機まで行ったなあ、と。
ああなつかしい。
日記にせよ短歌にせよ、私はたぶん、未来の自分に伝えるために書いていたのだと思う。
今ここ、この感情、この感覚を。
写真もそうだ。
私は昔から記憶力が乏しい方で、古くからの友達と話していて、そんなことあったっけ? ということがたくさんある。
それを覚えておけるようになったのは、日記や写真で記録するようになってからだ。
ピチカート・ファイブの『悲しい歌』という曲がある。
とても悲しい歌が出来た、あんまり悲しい歌だから君に聴かせたくないけど、と始まり、恋人に別れを切り出す歌なのだけど、最後はこんなふうに終わる。
ごめんね
だけどいつの日かみんな忘れるはず
悲しい、と思った。
心が変わることも、お別れも悲しいけれど、忘れてしまうことはなによりも悲しい。
いま思うと、この部分は、いや忘れることなんて本当はできない、というふうに反語的にもとれるのだけど、これを聴いた当時の私にはそんな解釈はできなかった。
なぜなら私は忘れてしまうから。
過ぎ去れば忘れてしまうと、自分でわかっていたから。
忘れることは悲しい。
だから強迫観念のように毎日日記を書いた。書かなければ消えてしまうと思った。その出来事も感情も、なかったことになってしまうと。
数年前、どうしても書く時間のとれない、嵐のように忙しい時期があって、実際にその頃の記憶は曖昧だ。いろいろとあったはずなのに、全体的にぼやっとしている。
なかったことになどならない、とわかってはいるのだ。
楽しかったことも、悲しかったことも、傷つけたことも、消えない。たとえ忘れても。
でも、とどうしても思ってしまう。
それはもしかしたら、せっかく感じたことがもったいない、という貧乏くさい感覚なのかもしれない。
『圧倒的に片想い』収録。
『悲しい歌』収録。