神様と自由と私
前回、「短歌の目」に参加させていただいて、気づいたことなど。
前回の最後にも書いたように、数年前に作った歌には、神様、あるいは自由、という言葉が頻繁に出てくる。
まず、神様について。
神様の城のふもとに住んでいた怖いものなどなにもなかった
私が住んでいた場所は山に囲まれた小さな集落だった。
夜になると、山を渡る風の音がごうごうと近づいてきて、屋根の上を通り過ぎていく。
あ、神様が通った、と思う。
そういう感覚が自然に浮かんでくる場所だった。
神様に守られている。
そのあたり一帯を示す地名に、神という字が使われているのは、たぶん偶然ではないと思う。
その場所に来るまで、訳あって不自由な暮らしを強いられていた(そもそもは自分のせいなのだけど)が、そこでの生活は、自由そのものだった。
ひとりの時間が山のようにあり
車でどこへでも行けて
給料もかなり自由に遣えて
会いたい人に会い、見たいものを見て、欲しいものを買い、歌いたいときに歌う。
そうか、これが自由か、と羽根が生えたような思いだった。
自由に勝るものなし。
誰がなんと言おうと、不自由な安らぎより、孤独な自由だ。
心からそう思っていた。
が、現在の夫と付き合いだしてから、事態は一変する。
私の自由さは相手を不安にさせるものだったのだ。
ひとりの時間はほとんどなくなり、会いたい人に会うこともできなくなった。
初めは本当にきつかった。私のいちばん大切なもの、自由、がどんどん私から剥がれていく。
自由であることこそ、私らしさだと思ってもいたので、自分が自分でなくなってしまうような恐怖もあった。
だけど、その状況にもやがて慣れた。
自由でなくても、私は私なのだった。
それに、相手のほうも慣れてきた結果、それなりの自由を再び獲得できたというのも大きい。
それでも時々、不自由だなあと感じる瞬間があって、そんな時に作ったのが、短歌の目の投稿に使った、
欲しいのは音楽と限りない自由 紅いあじさいベランダに置く
の一首だった。
それから結婚して、一年半前、同棲していたアパートから今の住居へ引っ越すときに作ったのが次のもの。
冷蔵庫のマグネットをひとつひとつ剥がしてしまう さよなら自由
これが現時点で、自由、という言葉を使った最後の歌になる。
さよなら自由。
本当にそこでさよならしたのだと、いま思う。
おそらく、自由そのものというより、自由というものに囚われることに。
そんなわけですっかり、自由って何だっけ、という感じになってしまい、今回のお題のために、いざ自由、自由、と作ろうとしても、全然思いつかない。
そのため、やむを得ず三年前に作った季節はずれのものを載せることになりました、という顛末です。
あんなに自由に拘っていたのに。
そんな拘りから解放された今のほうが、よっぽど自由な感じもする。
自由は自分の心の中にあったのね、なんてしょうもないことを思う年の瀬。
妊娠中の今は、食べてはいけないものも、出来ないこともたくさんあるとはいえ、特に不自由だなんて感じないけれど、
子供が生まれて、自分の時間がなくなって、そうなればまた私は自由を切望するようになるんだろうか。
そうなったら、また、自由の歌を作るのだろうか。
それとも、そんな時間も余裕もなくなるのかな。
気持ちを書きとめておく余裕だけは残しておきたいと思うけれど。