雉始雊(記憶の中の雉と記憶)
はいはいぎりぎりです。昔から何事もぎりぎりにならないとやる気にならない子供だった。ちゃんと候の初日に更新できる人たちはすごいなあ。
雉始雊、きじはじめてなく。雉が鳴き始める頃、ということだが、雉の雄が鳴くのは求愛のためで、繁殖期は3月から7月とのことなので、実際とはややずれていそう。でも気の早い雉は早々に鳴き始めるのかも、前のめりに。
雉といえば思い出すのは、たぶん大学一年の頃、友人と自転車で構内を散策していると、道路脇の茂みに雉がいた。驚いた。今なら間違いなく足を止めて観察なり撮影なりするけど、当時は鳥に特段の興味もなく、ただ驚いて通り過ぎた。
と、当時のことを思い返すと、あのとき一緒にいた友人は誰だったか、たぶんあいつなんだけど、なぜその人と自転車で散策などしていたのか(広大すぎて自転車がないと教室移動が間に合わない学校だったので、自転車に乗っていること自体は普通)、一年の時そんなに仲良かったか、もしかして違う人だったろうか、いやむしろ二年生だったか、とどんどんあやふやになっていく。なにしろ20年近く前だ。今そう書いて自分でびっくりしている。20年て。
大学時代の思い出は、全体的に苦い。楽しいことはたくさんあった。幸せだと思う時間も山ほどあったし、数えてみたらたぶん楽しいうれしい出来事の方が多いような気もする。だというのに、感覚として圧倒的に苦いのは、卒業後に友人関係でいろいろあったというのもあるけど、なにより、私がその頃の自分が嫌いだというのが非常に大きい。
嫌いだし、恥ずかしい。みっともない。馬鹿みたい。みんなの記憶から消えたい。
当時は本当に楽しかったのだ。友達もたくさんいたし彼氏もいた。サークル活動も楽しかったし、友達と車でラーメン食べにいったり、部屋飲みしたり、夜明けの海で花火をしたり。青春ぽい。
楽しかったからこそ恥ずかしくなる。周りが見えていなかったし、いろんなことに、気づかないふりをしてきた。なあなあでなんとかなると思っていた。そんな自分を周りのみんなはどう見ていたんだろう、私の欺瞞に気づいて生温かい目で見てくれていたんだろうか、と考えるといたたまれなくなる。
しかし振り返ると、そんなふうに思うようになってしまったきっかけはそもそも「卒業後の友人関係のいろいろ」なので、結局のところ苦い原因はそっちだといえるのかもしれない。
たぶん考えすぎで気のせいなのだ、ということにうっすら気づいてはいる。当時の友人たちに訊いてみたら、考えすぎだよ、と言われる気もする。その言葉を信じられるかどうかは別にして。
確かめられたら変わるんだろうか。苦い、から、ほろ苦い、くらいにはなるんだろうか。でももう連絡先はほとんど消してしまったし、特に仲の良かった後輩を除いては、会うこともないと思う。
もうみんな物語の中のことだ。
雉を見たのはもう一回ある。大学二年の夏休み、運転免許取得合宿で福島に行ったときだ。隣に教官を乗せて教習所内のコースを走っていたら、やはり道の脇の茂みにいた。
こう書いていると、ふたつの状況がよく似ていて(乗り物に乗っていて、隣に男性がいて、雉が道の脇の茂みに現れる)ますますわからなくなる。雉に二回出会っているのは確かなのだ、教習所のときに、また会ってしまった、雉ってこんな普通にいるものなのか、と思ったから。だけどその具体的な状況は、もしかしたらふたつのケースが混ざり合ってしまっているのかもしれない。印象的な方にもう片方が寄せられてしまっているのかもしれない。
そのくらいあやふやな、記憶というもの。
どうせ物語の中ならば、苦い記憶もほどほどに甘く作り変えてしまえたらいいのに、苦い記憶はどんどん苦さを増すばかりだ。苦いままどこかにしまっておくしかないのか、いつか風化するまで。
草むらにまぼろしの雉はばたいてあの日の罪を攫ってゆけよ
雉の写真はないので何年も前に行ったシャボテン公園の鳥たちの写真