こどもと季節

2月に産んだ子供が今月で10ヶ月になる。

晴れた日はほぼ毎日、子供と散歩に出かける。といっても子はまだ歩けないので抱っこなりベビーカーで。

夏はいろんな声の蝉が鳴き、黒、黄色、薄紫、青、いろんな色の蝶が舞い、草木も鬱蒼として辺りは生命の気配に満ち溢れていたけど、すっかり静かになった。鳥の声と足元の落ち葉の音、風で揺れる木の葉の乾いた音。

 

子供を産んでしばらくして思ったのは、赤子とはなんて不可逆的な存在なのか、ということだった。

毎日乳をやる。そのぶんだけ重くなる。具合が悪くなって体重が減ることもたまにあるだろうし、なかなか体重が増えないという悩みを聞くこともあるけど、娘は幸いそういうことはなく、飲めば飲んだぶんだけ大きくなっていった。

食べたから太る、ではなく、育つ。「育つ」には、「太る」に対する「痩せる」のような逆方向のベクトルは存在しない。完全な一方通行だ。

 

大人の日々は緩い螺旋を描くようにゆっくり未来へ進んでいく。今日の自分は昨日とほぼ同じだし、なんなら去年の今日とも同じだし、3年前も環境が違うくらいで出来ることや考えてることはたいして変わらない、それどころか感覚的に逆行している気がすることもある。確実に体は老化はしているし。

それに対して赤子の日々は太いまっすぐな矢印だ。力強い。迷いがない。ひたすらに、出来ることが増えていく。

真っ白な世界にどんどん色がつけられていく。

圧倒的な不可逆性。

 

季節はサイクルだ。夏が終われば秋、次は冬。夏はびろびろと長く、秋はしゅっと短い、という緩急はあれど、ぐるぐる繰り返し、来年もだいたい同じようにめぐる。

そんな輪環のなかで赤子の矢印の鮮烈なこと。

来年の今ごろは、無事に育てば、このふかふかの枯れ葉の上を自分の足で歩いているのだ。

 

だから1日1日を大切に、なんていうのは安直だし、慢性的な睡眠不足と疲労で毎日のルーティーンを無事にこなせたらそれで十分であるよ、という感じなのだけど、

この季節にこの状態の子、という組み合わせはもう二度と現れないと思うと、無性にもったいない気がして、毎日のように散歩に出かけるのだった。

 


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