雪下出麦(一候遅れ)
あけましておめでとうございます。
年末年始は平常運転でした。子育て中の専業主婦に正月休みはない。むしろ夫がいるのでブログを書く時間がなく、下書きのまま七十二候が次のに移ってしまった。でもせっかく途中まで書いたので書き上げます。
元日から昨日までの七十二候が、雪下出麦、ゆきわたりてむぎいずる。雪の下で麦が芽を出す頃、とのこと。
私の住んでいる南関東(というほど南でもないが)では、この時期、雪が積もることはほとんどない。なので、雪の下ではなく空の下に、麦が芽を出しているのを見る。アパートのまわりには大家さんの畑が広がっていて、秋まで里芋がわっさわっさしていたところに、いま青く短くつんつんと生えている、あれはおそらく麦だ。
去年の冬もたしか麦を育てていた。散歩しながら夫とそんな話をしていて、なんで麦なんだろうな、と言われたので、同じ場所に同じ野菜を作り続けると、土の中の養分が同じのばっかり無くなって良くないから、間に別の作物を挟むって聞いたことあるよ、と適当に答える。
それが二週間くらい前。
今回の(書いてる時点では今回だったが今となっては前回の)七十二候が麦だというので、そのことを思い出して調べてみた。
私の推論は半分くらい合っていて、里芋は連作障害が出やすい野菜らしい。連作すると、土の中の養分が偏るだけでなく、微生物の種類も偏り、作物の出来が悪くなったり病気になりやすくなる。
それで合間に麦を挟んでいるのかと思ったが、輪作の場合は4、5年周期で回さなくてはいけないようで、毎年あの場所は里芋なので、そういうことでもないらしい。
続けて調べていると、青刈作物というのが出てきた。作付けの合間にそれを栽培し、収穫するのではなく、ある程度育ったところで刈り込み、飼料として土に混ぜることで連作障害を避ける、というもの。トウモロコシや麦などがおすすめとのこと。
これだ。毎年麦が育っているのは見るけど、収穫している様子が記憶にないのは、そのせいだったのだ。
そういう目で改めて畑の麦の列を見ると、里芋の畝よりはるかに間隔が広い。列と列の間が2メートルくらいある。なるほどー、と散歩しながらひとりで膝を打つ。
というわけで、今回は考えるより勉強する回になりました。もっと掘り下げたかったけどもう…時間切れ…
今年の抱負もまだ考えていない。するんと流れるように新年になってしまった。とはいえ、この七十二候シリーズ、できれば最後までやり遂げたいと思っています。その他にも短歌とか創作とか、いろいろ…と思うけど、どうかな。
相変わらず模索中の当ブログですが、本年もどうぞよろしくお願いします。
まっすぐに伸びよだれかを生かすため蒔かれた種の仰ぐ青空
鹿と私の今年の終わり
年の瀬ですね。
七十二候、一昨日から新しい候に入っています。
麋角解、さわしかのつのおつる。鹿の角が生え替わりのために抜け落ちる頃、ということ。
このサワシカというのは奈良や宮島にいる鹿ではなく、北米や北ユーラシアにいるヘラジカのことらしい。日本にはいない。七十二候はもともと中国で生まれたのを日本風にアレンジしたものなので、日本にいない生き物も出てくるらしい。中国にはいる。中国は広い。
ヘラジカというものを私が最初に意識したのは、趣味でスウェーデン語の学習をしている時だ。Duolingoという語学学習アプリでスウェーデン語を学んでいると、ごく序盤の、動物の名前を覚えるセクションでヘラジカが登場する。犬や猫や鳥と同列で巨大な鹿が出てくる。すごいな北欧、と思った。
ヘラジカの角はオスにしか生えず、手のひらのような形をしている。ヘラのような角だからヘラジカらしい。
秋になるとオスはメスを巡って、この角を突き合わせて戦う。たぶんそれが角の主な役割で、だからそれが終わると抜け落ちる、ということなのだと思う。
が、Wikipediaには捕食者との戦いやオス同士の縄張り争いにも角を使うことがあると書いてある。そうなると冬は丸腰だ。
とはいえ縄張り争いに関してはみんな似たような時期に角が落ちるわけだから、単純に角のない同士の戦いになるし、捕食者に関しても、基本的には足技で戦うらしいので、そんなに問題ないのかもしれない。
あの大きな角が落ちるとき、ヘラジカはどんな感覚なのだろう。あれだけの大きさ、重さのものが頭からなくなるというのは。
あれこれ調べる前にイメージしたのは、バトルマンガで重りを外した時みたいな、ここからは手加減なしだぜ感だったのだが、調べたらもう戦いは終わってしまっているので、むしろ鎧兜を脱いだ感じなのかと想像する。
あー、今年も終わったわー。体が軽いわー。
と書いていて気づく。これ、たぶん明日のうちの夫だ。今日で仕事納めの。
物理的に身体が軽くなれば、心も軽くなる。髪を切ったあとは晴れやかな気持ちになるし、キャンディーズの「重いコート脱いで出かけませんか」もそういうことだと思う。
だから角を落としたヘラジカたちも、多少の心細さはあれど、きっと軽やかな気分なのではないかなという気がする。肩の荷がおりたというか、頭の荷がおりたというか。
ヘラジカにも人間にも、一年の終わり。
新しい角が生えてくるのは次の春だけど、人間の新しい年はもうすぐそこだ。
私も家の中で役目を終えた物たちを捨てて、軽くなって一年を終えたいと思います。
皆様も良いお年をお迎えください。
髪を切る鋏の音が告げる さあ羽をひろげてどこでもお行き
余談
ヘラジカについて調べていて今回いちばん衝撃的だったのは、
ここに書かれている「子ジカは急速に成長し、生後5日で人間よりも速く走ることができるようになる」
どうなってるんだ
乃東生と冬至
今、私の中で流行ってるので、今回も七十二候の話、と下書きでもたもたしているうちにクリスマスイブになってしまった。どんまいです(自分に)
一昨日の冬至の日から、乃東生、なつかれくさしょうず、という新しい候になった。
ぜんぜん読めない。
夏枯草、生ず、ということらしい。夏枯草とはウツボグサのことで、その別名が乃東。なぜウツボグサがフィーチャーされているかというと、
冬至は一年でいちばん日が短い、太陽の力が弱まる日であることから、死にいちばん近い日とされていた
そんな時期に芽を出すのがウツボグサ、それはまるで希望のようだ
ということらしい。
ウェザーニューズのサイトにそういう記事があったのでリンクを貼ろうとしてたんだけど、去年の記事で、ちょうど1年経ったために削除されたみたいだ。わかりやすい説明だったのに残念。
芽吹きに希望を見る、というのは去年このブログでも書いたことで、とてもよくわかる。
でも、なんだかしっくりこないのは、他の候は「その時季に起こること」を淡々と述べているだけのように見えるのに、希望なんて主観的すぎやしないか、そんな主観的なものが候の選定に関わってくるのか? ということだ。
なんだろう、なんでだ、と散歩しながら考えた。
夏至の七十二候は「乃東枯」、なつかれくさかるる、となる。
冬の最も日の短い時に「生ず」、夏の最も日の長い時に「枯れる」というのは、なんだか逆転しているような、終わりは始まり的な…? とぼんやり思ってたが、よくよく考えてみれば逆でもなんでもない。
冬至を転換点としてだんだん日が長くなるのだから、単純に、始まりなのだ。ここを境に太陽の力はどんどん強くなっていくのだから。
死から生への転換点。再生の時。
そのタイミングでたまたま芽吹くから、夏枯草が選ばれた、ということではなかろうか。ちょうどうまい具合に夏至の頃に枯れるし(実際には花が枯れたように黒くなるだけらしいが)。
と、自分の中で腑に落ちるまで時間がかかったわりに、後から調べたら最初からそういうふうに説明しているサイトもあったりして、今回の記事はいつもに増して内容のない感じになりました。どんまいです(自分に)
いいの、お役立ちブログを目指してるのではないから。自分が考えることが大事なの。そう。
日が最も短い、といっても本格的な冬はまだこれからだし、関東の冬は眩しいほどの晴れ続きで、太陽の力が弱いという感じはあまりしない。
特に我が家の居間は南向きで、日中はとにかく暖かい。暖房なしで20℃近くまで上がる。
でもそれはあくまで昼間の話。
日が落ちると、それまでの暖かさが嘘のように、一気に冷え込む。昼間どんなに熱を溜めたつもりでも、あっという間に冷える。
そしてその温→冷への転換点がいちばん早くやってくるのが、つまりは冬至ということなのだ。
冬至については、夏至との関係や、お祭りや、外国での扱いなど、調べてみたらいろいろ面白そうだったので、もっと深く掘り下げてみたかったけど、それをやっていたら来年になりそうだったのでやめた。でも、いつか調べてみたい。
大学で文化人類学を専攻していた、あの頃にもっとこんな好奇心があったらよかったのになあと思う。
でも、気になったことがウェブで簡単に調べられる(情報は玉石混交とはいえ)今だからこそ、こんなふうに簡単にいろんなことに興味をもてるのかも、とも思う。
個人的には、どんどん辺りが薄茶色くなっていく今の時期にいちばん生命力を感じるのは、木を覆って上へ上へ伸びていく蔦。元気だなあ、といつも見惚れてしまう。
なにもないなにもないなにもない今日に死んで明日によみがえりたい
鮭、ふるさとへ
前回の記事から七十二候を追うようにしているのだけど、一昨日から新しい候(というのか?)に入りました。
鱖魚群、さけのうおむらがる。鮭が群がり川を上る頃、ということらしい。
おや?
北海道土産の木彫りの熊、彼らがくわえてるのは、川を遡上してきた鮭ではないのか。
でもひとつ前の候で熊は冬眠に入っている。どういうことなの。
ウィキペディアによると鮭の遡上は10月から12月とのこと。ということは、12月半ばのこの時期、すでに大半の鮭はふるさとの川に戻ってきている。
そう考えると、この「鱖魚群」の鮭は、群れて上っているのではなく、冬眠前の熊からなんとか逃れて川を上りきり、産卵のために群がっている状態なのでは、という気がする。
大海を3〜5年回遊してからふるさとに戻る。幼なじみが一堂に会するようなものか。
久しぶり、久しぶり、元気だった?
あの子はまだ帰ってきてないんだね。
あいつ、可愛くなったよな。
そりゃあ3年も経てば、鮭は変わるよ。俺だってお前だって。
そしてメスをめぐるオスたちのバトルが始まる。
今はたぶんそういう時期です。
鮭は卵を産むと死んでしまう。
遠くの海を旅して、生まれた場所に帰り、同じ場所で生まれた相手と子を成し、生まれた場所で死ぬ。
鮭は産卵のために生まれた川へ帰る、と言われがちだけど、産卵=死である彼らは、もしかしたら、ふるさとで死ぬためにそこを産卵場所にしているのかもしれない、とふと思う。
そこで死ぬために生まれた川へ帰る。
まあ実際にはそこが自らの種の生育に適しているから、とかなんだろうけど。
私が生まれた場所にはもう友達と遠い親戚しかおらず、地元愛もさほどないので、なんともいえないのだけど、こういう人って少なからずいる気がしている。
上京して結婚して地元に戻って家を建てるとき、ある程度は、そこに骨を埋める覚悟があるということなのかな、とうっすら想像する。
私はどこで死ぬのだろう。
まだまだ、考えられない。
どこまでも行ける気がした あの川へいつか帰ると知っているから
↑地元に帰ろう、地元で会おう、ってね
まさに暦の上ではディセンバー
(そういえばアフィリエイトリンクです)
おやすみくまさん
先日こちらを読みました。
大好きなのだ、津村記久子。
これは季節ごとの風物詩や祭りやモノや何やらにまつわる随筆集で、と書くと風流なようだがそんなことはなく、延々と自転車競技の選手の話をしてたりするのだが、それはさておき、
各タイトルの最後に七十二候の記載がある。
散歩が好きで、季節の移り変わりを眺めるのも好きなわりに、私はそういうのに疎くて、二十四節気だとか七十二候なんて昔の日本に合わせたものでしょ、現代日本の季節感とはずれてるんでしょ、くらいの認識でいた。
でも、見ていくと、これが意外と面白い。
11月の下旬に、「虹蔵不見」、にじかくれてみえず、というのがある。
このあたりから光が弱くなって虹が見えなくなる、ということらしい。
えっ冬って虹見えないの…!? と衝撃を受ける。そういえば見たことがない。見るのは夏と秋ばかりな気がする。
そうか、見えないのか。もう来年の春まで虹は出ないのか。というか春もあまり虹のイメージがないけどいつから見えるのだろうか。
と、知らなかったことをひとつ知って、そこから謎がふくらんでいく。ほら面白い。
今は七十二候では「熊蟄穴」、くまあなにこもる、らしい。
くま、あなにこもる。
好きだ、この響き。
声に出して読みたい。くま、あなにこもる。
穴にこもって何をしているかというともちろん冬眠なのだが、その間にメスの熊は子を産むらしい。
この時期から巣穴にこもり、冬の間に子を産み、翌春に穴から出てきたものを私は知っている。
去年の私だ。
実際は臨月には散歩でそのへんを歩いていたが、産んでからひと月はほぼ家にこもり、3月の終わりにお宮参りのために久しぶりに外に出たとき、外が明るくて、ああ春だ、と思ったのを覚えている。
早めの桜や、辛夷、白木蓮、淡い色の花たちがきらきらと車窓を流れていくのを見ながら、ひっそりと胸を高鳴らせていた。
私が穴にこもっている間に冬は終わったのだ。
冬眠から目覚めて巣穴から出るとき、熊もこんな気持ちになるのだろうか。
さようならくまさん 次に会うときは淡いひかりの中 春の中
余談
昨夜はこのブログを途中まで書いて寝落ちして、落ちる直前に話の展開を忘れないようキーワードをメモしておいたのだが、いま見たら書いてあったのは
「去年の今頃」←これはわかる
「おもちゃのピアノ」←????
落ちる直前どころかすでに夢の中にいたらしい。
↑寝かしつけの友。とんでもなくかわいい
こどもと季節
2月に産んだ子供が今月で10ヶ月になる。
晴れた日はほぼ毎日、子供と散歩に出かける。といっても子はまだ歩けないので抱っこなりベビーカーで。
夏はいろんな声の蝉が鳴き、黒、黄色、薄紫、青、いろんな色の蝶が舞い、草木も鬱蒼として辺りは生命の気配に満ち溢れていたけど、すっかり静かになった。鳥の声と足元の落ち葉の音、風で揺れる木の葉の乾いた音。
子供を産んでしばらくして思ったのは、赤子とはなんて不可逆的な存在なのか、ということだった。
毎日乳をやる。そのぶんだけ重くなる。具合が悪くなって体重が減ることもたまにあるだろうし、なかなか体重が増えないという悩みを聞くこともあるけど、娘は幸いそういうことはなく、飲めば飲んだぶんだけ大きくなっていった。
食べたから太る、ではなく、育つ。「育つ」には、「太る」に対する「痩せる」のような逆方向のベクトルは存在しない。完全な一方通行だ。
大人の日々は緩い螺旋を描くようにゆっくり未来へ進んでいく。今日の自分は昨日とほぼ同じだし、なんなら去年の今日とも同じだし、3年前も環境が違うくらいで出来ることや考えてることはたいして変わらない、それどころか感覚的に逆行している気がすることもある。確実に体は老化はしているし。
それに対して赤子の日々は太いまっすぐな矢印だ。力強い。迷いがない。ひたすらに、出来ることが増えていく。
真っ白な世界にどんどん色がつけられていく。
圧倒的な不可逆性。
季節はサイクルだ。夏が終われば秋、次は冬。夏はびろびろと長く、秋はしゅっと短い、という緩急はあれど、ぐるぐる繰り返し、来年もだいたい同じようにめぐる。
そんな輪環のなかで赤子の矢印の鮮烈なこと。
来年の今ごろは、無事に育てば、このふかふかの枯れ葉の上を自分の足で歩いているのだ。
だから1日1日を大切に、なんていうのは安直だし、慢性的な睡眠不足と疲労で毎日のルーティーンを無事にこなせたらそれで十分であるよ、という感じなのだけど、
この季節にこの状態の子、という組み合わせはもう二度と現れないと思うと、無性にもったいない気がして、毎日のように散歩に出かけるのだった。
9ヶ月ぶん
短歌の目企画がお休みに入り、私もすっかり休んでしまいましたが、また何かを書きたいような気持ちになってきたので書くことにしました。
今年の2月に子供を産んで、それから、短歌の目のお題と関係なくつくったもの(と、お参加後にお題で思いついたもの)をいくつか
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街灯に九尾の狐のごとく影 好きなあなたを選ぶといいよ
子を抱きいのちを分け与える夜にアンパンマンの孤独を思う
手の中に暗闇を握りしめたままほほえみあってまばゆい真昼
やわらかくあたたかな背中をさすり真夜中わたしは宝石になる
カーネーション、カルナシオンと発すれば血肉の赤さ 生命の赤さ
とろとろととぎれない蜜もういっそ許してしまえあの夜のこと
一瞬の今、いま、が流れ落つ川を遡上してゆく七月の宵
永遠に聴こえつづける潮騒よ君が生まれたささやかな海
ころころとおなかをのりこえられるときくったりとしてパンダのこころ
夕焼けが世界を焦がす今日もただ生きていただけ 生きていただけ
しばらく短歌ばかりだったけど、そろそろ文章も書こうかな…どうしようかな…
ブログ開設して1年半になるのに未だに模索中。決断力に欠ける